Blossom - Hollyhock
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「おはようございます!」
「ふぁ、桃ちーおはよー」
あくびをして目をこすり、琴先輩はいつも以上に眠そうだった。
「先輩、眠そうですね?」
「ねっむいよ。別に夜更かししたわけじゃないんだけどな〜」
全く、といった表情を浮かべて、また一つあくびをした。
一日目にも朝練をやったが、二日目でもみっちりやる。公演まで練習に集まる場所なんてない上に、ストレッチやアップをする時間もないのだった。
そうそう、ストレッチといえば……隼先輩。
ほぼ反射的に視線を彼に向けると、いつものように恐るべき柔軟さをさらけ出していた。
あんなに足が長いのに前屈が余裕なのだ……。しなやか、という言葉がよく似合う彼は、部内一の身体の柔らかさを誇っていた。
水瀬先輩に、そんなとこも女っぽい、とか言われて、すごい怒ってたな。
隼先輩、第一印象は確かに中性的だったのだけど、見慣れてしまうと外見は女の子には全然見えない。
けれど、すごく世話焼きなところとか、相談に乗ってくれる辺りが、頼りになるお母さんか何かみたいなのだった。
……私より女の子らしいところもいっぱいあったりして。料理裁縫がお手のもの、化粧もできれば絵も上手い。女心もよくわかる。
でも結局、器用でカッコイイなぁという印象に落ち着かせるオーラが彼にはあると思う。
綺麗な身体をてきぱき動かして進めるストレッチに見とれていると、ふと目があったり。
どうしていいかわからなくてとりあえず微笑むと、隼先輩は珍しく、困ったように笑った。
こんな風にも笑うんだ……。
正直、いつもクールとあって、笑顔を見せることは、他の部員よりは断然少ない。
笑っても大抵呆れ笑いか嘲笑の類だったりで、優しい笑いは稀だ。
サキ先輩のお得意な困り笑顔を隼先輩がすることは滅多になかったから、私は一人無言で驚いていた。
「あ、隼先輩っ」
「なんだ?」
朝練も終わって解散となった後も、彼の先ほどの笑顔が気になっていた。
「さっき……どうしたんですか?」
問うと、彼は少し考える仕草をしてから、こう返した。
「なんだろうな。お前について嫌な予感がしていてな。そのことを考えてたから、笑うチビの顔がいつもと違って見えた」
からかい、なんかじゃなくて……。いつもよりもすごく真剣に、彼は答えた。
嫌な、予感……? 隼先輩のカンって、絶対当たりそうだから、なんか怖いな。
「安心しろ。よっぽどの状況じゃなきゃ、部員の誰かくらいはすぐにお前のところに行ける。何かあったら連絡してくれ」
私を安心させようと、優しい微笑みと、暖かい手で頭をぽんと叩いてくれた。
「はい……」
大丈夫、昨日だって普通に過ごせたんだ。今日に限って何かが起こるはずがない。
それに、隼先輩の言うように、みんなが、いる……。頼ってばかりじゃいけないけど。
「よし、そろそろ行け。一般公開始まるだろ?」
「はいっ」
いつも通りの頼もしい口調で背中を押してくれたから、私も気分を切り替えて、いつも通りいこうと思った。
心配したって、怖がったって、何が変わるとも言えないよ。
「こ、こんにちは」
ちょっと緊張しながら笑顔の受付の子に挨拶をした。
私を認めた瞬間、一瞬表情が固まったその子に、私は苦笑いで返して、パンフレットを半ばもぎ取るようにして受け取って中へと入った。
来ちゃった……! ダンス部、公演。
行こうとは思っていたけど、なかなか踏み出せなくて、しかもそのせいで胸を張って誰かを誘うこともできなかったから、一人で来た。
ダンス部内でどういう扱いを受けているのかわからないけど、少なくともヒップホップ部にベタベタな人たちにはあまり良い評判ではないことくらいは、わかってる。
しかし、ダンス部の中にも普通の真面目な子はいるから、そういう子とは仲良くできたら……なぁ、なんて。
マネージャーとして……一、女の子として、興味はあるから、咎められる必要なんてないけど、ちょっとだけ居づらい空気もあった。
ほとんどの人がパンフレットを読んだりしているから他の客なんて見てないけど、私のことを知っていて気づいてる人もちらほらといる。
目立つ外見じゃないけど、目立つ行動は微妙にしているから……ね。
ある意味どきどきの公演前の時間が終わり、公演が始まる。
華やかな音楽。男女の違いはこういうところにも出るのか。
かわいらしい衣装を着て、アイドル系の音楽で踊る。かっこいい衣装を着て、洋もののダンス系ミュージックで踊る。
ヒップホップ部でもバリエーションはあるが、ダンス部の女の子たちの方が、たくさんの顔を持っているように思えた。
そして、ヒップホップ部と同じ、選抜メンバー三人の踊りが始まった瞬間。
舞台の中央に立つ彼女を見て、客席が、どよめいた。
遠くからでも眩しいほどに輝いて見える、綺麗な顔。何もかも完璧といえるほどに整った容姿の彼女は、一際大きな笑顔を浮かべてから、人々を圧巻させるほど迫力のある踊りをした。
――篠田、愛香。
周りの人々が口にするのは、彼女の名前か、すごい、の一言。
こんなこと考えたくなかったけれど、確かに、サキ先輩と踊ったらすごく映えると思った。
容姿も、踊りも、彼に釣り合う。いや、彼が彼女に釣り合う、と言ってもいいほどに、彼女は素晴らしかった。
多分、とんでもなく綺麗な人ですごく踊りが上手いんだ、とは思っていたけれど、ここまでとは思わなくて、正直圧倒された。
そして……私なんかで、よかったのかなって。
何があっても自信を持っていこうって思ったのに、こんなところでその決意は揺らいだ。
でも、自信、失くすに決まってる。篠田先輩はサキ先輩のことが今でも好きなはずで、そして彼女は彼の相手として完璧ともいえるものを持っている。それがわかっていながら、彼は、あえて私を選んだ。その理由が、理由なんてないのに、わからないから、不安になる。
ただ時間は過ぎて、終わってしまった舞台に無心で拍手を送る。
こんなところまで来て、私、何考えてるんだろ……。
しばらく立ち上がる気にもなれなくて、カバンを握り締めてぼーっとしていた。
「あんた、何しに来たの?」
前の列のパイプ椅子の背もたれをただ眺めていたら、ふと声をかけられた。
顔を上げると、ダンス部の、三年生の人。
「公演、見に来たんです」
間違いはない。本当に、それだけだもの。辛気臭い顔を無理に振り切って、笑顔を作った。
彼女は、私を無言で睨みつけている。
「あの、良かったですよ、すごく」
不安に思って口にすると、彼女は怒ったような顔をして吐き散らした。
「お世辞ならいらないけど」
「そうじゃありません」
私が、そんなこと、しない。そんなこと言うために、来たわけじゃない……。
「基山さん。せっかくあたし達がみんなに女の子が寄り付かないようにしてるのにね、あんたがいたら意味ないの。あんたがべたべたしてたらさ、あたし達がとばっちり食らうだけなの」
皮肉たっぷりの侮蔑の眼差しを向けて、彼女は言った。
女の子が、寄り付かないように……?
「そんなこと、頼んでませんよね? 誰も、頼んでませんよね」
絶対に知らない。あんなこと言ってた梢君が、このことを知っているはずがない。二年・三年の先輩たちはもしかしたら気づいてるかもしれないけど……一年生は、きっと知らない。
「でもね? わかるでしょ、調子に乗ったやつらに付きまとわれる可能性が高いんだから、めんどくさいって」
「そんなの、頼まれてもいないのにやるのはどうかと思います」
いっぱい告白されたいとかじゃなくて……。出会いのチャンスが、とかでもない。
本人の意思の関わらないところで、きっと彼らの名前が出されて、侮辱されて、女の子たちは泣くんだろう。
心優しい彼らが、そんなことを望むはずがない。見て見ぬふりをしていたとしても、望みはしない……!
憤りを感じてきた私に、彼女は一層声を荒げた。
「あんたがわかることじゃないわよ! ……どうせ関係ないんだもんね。あんたに手出したらあたし達の立場がなくなるだけだからね。一人放し飼いにされてるからっていい気になるんじゃないわよ!」
誰にもあなた達に飼われてなんかない。私は部員に飼われても、部員を飼ってもいない。
ただの、しがないマネージャーに、色々くっついてきちゃっただけの話。
「じゃあ、聞いてみますか? 梢君なら、あなた達を軽蔑しますよ。和真君は、怒って口もきいてくれないと思います。孝篤君はあなた達を許しても、あなた達のやったことは許さない。もしも秋穂ちゃんにも何か言ったなら、敦史君は女だろうとあなた達を殴ります」
彼らを盾にすることは、好きじゃないけど。彼らの誇りにかけて、許してはいけないこと。
人道を外れた行いに黙っていられるほどの馬鹿で気楽な人間は、うちの部活にはいない。
「バラすっていうの? いいご身分よね、ホント」
「うんうん」
すっかり怒った彼女の後ろから顔をひょいと出したのは……。
「ひ、久くん!?」
彼女の方が驚いて身を引く。久くんはお構いなしににこにこしている。
「そろそろ片付けてくれないかなぁ。すぐに俺ら準備しなきゃで」
うろたえた表情を隠せないまま、彼女は久くんにぶんぶん頷き、私をひとつ睨んで去って行った。
久くんは、私の頭に手を乗せて笑った。
「ひっでぇよな。バカかって。なーんにも俺らのためになってないのにさぁ、労力使っちゃって」
「聞いてたんですか……?」
朗らかに笑いながら、久くんは私を慰めるかのように頭を撫でた。
「小川ちゃんの怒り声だけめっちゃ聞こえてたからね。あ、桃ちゃんのカッコイイ反撃もちょっと聞いちゃいました」
てへ、という身振りつきで、久くんはかわいらしく笑った。
私の言ってたこと……大丈夫、だったかな。
それと、本当に彼らに言うべきかどうか。
「小川ちゃんには俺から言っとくよ。一年にこのこと伝えるかどうかは、桃ちゃんに任せる。正直、やめてくれるんなら別に構わないと思うけど、みんな怒るかもだよねぇ。それが怖いっていうか」
ちょっとだけ、あの先輩がかわいそう……かなって。元を正せば彼らへの好意が変な風に向かっちゃっているというだけなのだから。
……黙っておこうかな。彼女たちが自分から謝る前に「バラし」てしまえば、みんな彼女たちに対して怒ることしかできない。許すことは難しくなってしまうから。
「隠すわけじゃありませんけど……。とりあえず、黙っておきます」
久くんは頷いて、手をどけた。
私はダンス部の公演を見に来てそのままだったことに今更気がついたので、急いで更衣室へと走った。
構わず勢い良くドアを開けると、案の定……あれ?
着替えている途中の格好の人も、いるのだけれど、何か、様子がおかしかった。
「桃歌、緊急事態だ。和真の衣装が、まるごとない」
隼先輩までもが焦った表情を浮かべていた。
和真君の衣装が……?
衣装などの公演に使う荷物は基本的にここに置いて行っているはずで、多分朝練の片付けをしてみんなで荷物を置きに行ったときに、和真君本人が置いたはず。
「確かにこの棚に置いてたんだけど、袋ごと消えちまった」
焦りと困りを五分五分に浮かべた和真君の顔を見て、私は困り果てた。
「ここを探してなかったら、あとは……」
ここは、ダンス部も一緒に、使っているから、ダンス部の人が間違えているか。
でも、どうしよう。さっきあんなことがあったばかりで、すごくダンス部のところには行きにくい。
「ダンス部には俺が聞いてくるよ」
着替えを済ませていた葉山先輩がすっと手を挙げて言った。
さっきの出来事や私の心中を知ってか知らずか、ダンス部に行ってくれるというのか。
「俺も行きます」
そこに、今の瞬間に着替えを終わらせたサキ先輩が加わる。
これなら……安心、かな。
「私、探しますから、着替えてください」
ひたすら荷物の山を漁る部員に声をかける。
今は裸がどうこうとか言ってる場合じゃないし、どうでもいい。
棚の中の荷物をひとつひとつ丁寧に調べていく。和真君の衣装は見慣れているから、見ればすぐにわかるはず。
ない……ない。
棚の中は全て調べ終わった後で顔を上げると、机の上を調べていた隼先輩が首を振った。
「ど、しよ……っ」
最悪、私服そのままか、誰かの私服に着替えるか。
服自体は、今和真君が着ているポロシャツでも、衣装とあまり変わりはないから、彼の私服でいいだろう。
しかし、演出に大切な、帽子がない。
しかも外靴そのままでステージに上がっちゃだめだし、靴を取りに行くには時間がかかる。
「お前が慌ててどうする。今はサキと葉山先輩を待つしかない。もしも見つからなかったときの打開策は、考えておくから」
厳しくも優しく隼先輩になだめられる。
そう……だな。私が和真君本人よりも冷静さを失ったりして、本番に影響が出たら元も子もない。一人であれこれ悩むのも褒められたものじゃない。
そのとき、扉が開いてサキ先輩が入ってきた。
「あったよ、ダンス部の子がやっぱり間違えて持ってた」
和真君に投げて、安堵の溜息を漏らす。
「あれ、葉山先輩は?」
問うと、扉の外を示して、外にいることを伝えた。
そっか、そうだ、準備しなくちゃ。
「それじゃ、準備行ってきます」
急いで更衣室を出ると、葉山先輩がダンス部の女の子と話をしていた。
私を認めると親指を立てた右手を軽く突き出してきたので、私はおずおずと頷いた。
……? なんなんだろう。
時間もないので、体育館へと急いだ。
「まず最初に言うと、今の俺の立場はヒップホップ部の部長だから」
「は、はい……」
実際この子が企てたことじゃないことくらいわかってるが、一年生にも威圧をかけておかないとまた何かしでかすかもわからない。
「まァ、サキにバレたらもっと怖ぇだろうけど、黙っといてやる。それは俺の私情で、だな」
葉山悠輔一個人としての立ち位置はサキとの対立にある、ことになっているからな。
「基山を貶めようとご足労なさったことは、とりあえず置いておく。が、ただそういうことするよりも、うちの部に迷惑かかるようなことをやる方が、ハイリスクだってことわかってるか?」
あいつ一人に陰湿ないじめでもしてやっても俺は何もしてやらねぇが、部が関わっては違う。
部が関われば、部員全員がほぼ漏れなく黙っちゃあいねぇ。
「はい……」
「バレたらお前らの大好きなヒップホップ部全員を敵にまわすことになるぜ。しかも、もし基山を貶めようとして策は成功したとして、隼の目を誤魔化せるか? 無理だね。……そんなわけで、やるならもっと上手くやるべきだったな。ということと」
少しのお情けで残しておいた笑みを消す。彼女がおののいた。
「誰かが『わざと』ヒップホップ部に迷惑をかけたとわかったら、俺はそいつを絶対に許さないからな、覚悟しておけよ。……今回は未遂くらいのノリで済んだから許しておくが、肝に銘じておけ」
……大体、嫌いなんだよ。こそこそして、いらない罪なすりつけるような真似して。
相手に落ち度がないことを認めたやり方だ。自分の主張が弱いことを自覚している証拠だ。
意味もなく、とりあえず基山を嫌っている、くらいの生半可な気持ちであいつに関わると絶対に後悔するというのに。
部員があいつを求めているこの状況で、あいつをこの部から引き離すことは無理に等しい。ならば、選べる手段はぐっと減る。
頭の弱い女にはわからないのな。……俺は、自分が満足するまであいつらを認める気はない。
基山が卑しい行動を一回たりともしていない限り、あいつに罪をなすりつけるようなやり方では、ダンス部が望む方向には何も変わりやしない。
部員に話しかける勇気もないくせに、仲良くしてるってだけで基山を憎たらしく思うとか、バカか。あいつはそれなりに話ができる子だから好かれているんだろうが。
……わかっていないな。何もかも。
ダンス部と関係を持つのも本当に疲れた。あそこにはつくづくバカな女ばかりだ。
――彼女を、いまだに疎外し続けているという点でも。
「た、高梨君! 握手してぇ!」
公演が終わった後、一日目と比べて、圧倒的に和真君に声をかける女の子が多くなった。彼はこういうときばっかりは照れもしないで笑顔で対応していて、ちょっと意外だった。
空気があまり巡回しないし物も人も多くて蒸し暑い体育館の、熱い照明のあたるステージで踊った後の部員はみんな汗だくだったけど、運動した後のスポーツマンの例に漏れずかっこよかった。
シューってやんないと臭いことには臭いのだけどね。ただその辺は抜かりのない人たちばっかりだから私も不快に思うほどのことはあまりない。
「桃ちゃん、どうしたの」
「んー。和真君って、なんでこういう時はあんなに素直なのかなぁって」
和真君が女の子を器用にさばいている様を眺めながら、梢君の言葉に答える。
私と話してるときも、たまーにすごく自然体な笑顔を見せてくれるけど、思い出したようにつんつんしだしたりする。
別に私のことが嫌いでそういうことしてるんじゃないって本人は言ったけど……。
「あいつ桃ちゃんのこと意識しすぎだから落差激しく見えるのかな? 普段からあんな感じってことはないけど、僕はそんなに驚かないけどな」
「気にしないでって言ったのになぁー」
あれから、素っ気なくはなくなったけど、どこか一線おかれてるような感じがする。
私だってそんな別に大人しい子ってわけでもないし、和真君みたいな男の子とわいわいするの嫌いじゃないのにな……。
お客さんがほとんどいなくなって、ふとこちらを向いた和真君と目が合った。
梢君と二人してずっと見ていたから、こちらを見た瞬間に彼はびっくりしたような顔をした。
「な、何だ?」
ちょっと恥ずかしそうな顔で首の後ろをかく仕草が型にはまりすぎてて、梢君が思わず噴き出した。
「桃ちゃんが和真ともっと仲良くしたいって!」
からかいを交えてそんな風に言ったから、私も和真君も赤くなった。
いや、間違ってるってことはないんだけど……。
「っま、あんまり基山チャンと仲良くしすぎるとサキに睨まれるけどなー!」
彼の頭を後ろから掴んで、がしがしと撫でた水瀬先輩に、和真君は必死に抵抗する。
こんなところ、やっぱりちょっとかわいいかも。
和真君が彼女作って一緒にいるところとか見てみたいなぁ。だって、なんだかんだ言って素直なときはすごく素直で、その純粋さが眩しすぎるくらい素敵だから。
「お、わわ」
そんな様子を笑いながら見ていたら、すっと体が後ろに傾けられた。
バランスを崩して倒れこんだ先には、暖かい――いや、熱い体温。
「そーそ。こうやって妬いちゃう」
控えめに甘く響く甘い言葉は、サキ先輩のものだった。
いつものことだけれど、彼の表情を見てしまうと、もう、暑いとかなんて言えなくなる。
どこか得意気に、でも少し頬を赤く染めて、幸せそうに笑んだ。いつだってこんなに素敵な笑顔ができるのは本当にすごいと思う。
「最近、基山チャンの笑顔がほとんど全部にやにやしてるように見えるぜ……」
……その通りなのですけれども。
サキ先輩や部員たちの並外れた言動に慣れてきてしまったから、とにかく彼らが嬉しそうなのを見て笑ってしまったり、そういうのばかりだ。
「……その、サキ先輩的には、基山が俺たちと話してること自体が、嫌ですか?」
おずおずと、しかし堂々とした態度で問うた。
再三、に近いものがあるだろう。分かりきっている常識に近いこと。
「そんなことないさ。ただ、その時間の何倍も俺にくれたらいいなって思う。ただそれだけ」
何か口をはさみたくなるけど、でも口を開いても出てくる言葉はなかった。
その他の何倍も同じ時間とかを共有したいって思うのは……私だって、おんなじだ。
何を思ったのか、和真君はサキ先輩の言葉を聞いて、満足そうに笑った。
「じゃあ、基山が頑張れ! 俺は遠慮すんのやめるよ」
一際明るく笑って、和真君は走って行ってしまった。
遠慮……してたんだ。最初は私自身に、次は私とサキ先輩の関係に。
和真君って案外雰囲気を察して身を引く性格なんだなって思った。多分、苦痛とかではないだろうけど、それが楽しいはずないもん。自然体でいい。
「桃歌チャンに欲しがられるなんて羨ましいよ。和真も隅におけねぇな」
――とか言って、サキ先輩がわざわざこんなことを言うときは、絶対に相手より優位にあることを意識してるときだもん。
「基山チャンはオールウェイズウォントサキだもんな!」
「そ、そんなこと! ……あり、ます、けど……」
一緒にいるのが当たり前だなんて思っちゃいけないって、いつでも承知してる。だから、サキ先輩といたい、サキ先輩と話したい、って、いつでも思ってる。
「俺も、桃歌チャンがいっつも欲しいよ。――っていうか、俺のものだから」
どうしてこんな流れになったんだろう、なんて、こんな状況で私は場違いに冷静になってしまったり、だけどそれはドキドキしすぎた時の典型だなんて最近は気づいてしまった。
私の背後から耳元で囁いたサキ先輩の甘いお言葉に、私は真っ赤になって身をよじった。
「うお! 桃ちゃんこんなとこにいた。咲哉に隠れてて全然見えなかったよ。片付け行くよー?」
サキ先輩の肩の向こうからひょこっと顔を出したのは久くんで、私は今の体勢を思い出して恥ずかしくなった。
しょうがないなぁって顔をして名残惜しそうに腕を放したサキ先輩に一つ会釈をして、久くんの後を追う。
そういえば久くんは、三年生でも初期にサキ先輩のことを悪く思っていたグループではなくて、朝斗先輩のように味方……に近かった。
でも、本当は何か思ってるんじゃないかなって不安になるくらい、私とサキ先輩の関係については何も口を出さない。
「なーに。何か言いたいことでもあるの?」
顔だけひょいとこちらを振り向いた久くんは、珍しく真面目な顔だった。
眉間にシワを寄せた私を、背中越しに見抜いていた彼は、目を合わせたあと薄く笑った。
「言えないならいいけどね。――俺は、言えなくて隠してることはないからね」
言わないことはあるけど。
いつも満面に笑う彼が浮かべた微笑みに、私は少し身震いをした。
つまり、私とサキ先輩の関係について何か思っていても、それを私たち本人に伝えて何かしようという気はない、ということ。
「ありがとうございます……」
それは、少なからず葉山先輩の圧力を受けているはずの三年生の先輩の中では、とても賢い選択で、そして私たちを気遣ってくれていた。
腰が低くなってしまった私の頭にぽんと手を置いて、久くんは真剣な顔で囁いた。
「咲哉のことを許せないやつらは、悠の味方ってわけじゃなくて、愛ちゃん――愛香ちゃんが好きなやつばっかりだよ。愛ちゃんの事情に同情すれば自然とそういう立場になるかもしれないけど、咲哉だって辛い思いしてるのは、俺は知ってる。もちろん桃ちゃんが苦労してるのも。だから、胸張っていい。自分が乗り越えてきた苦悩の壁を、ちゃんと認めていい」
久くんの顔は、少しだけ、ほんの少しだけ、悲しみを隠しているように見えて、私は驚いて言葉が出なかった。
ひとつだけの聞きたいことも、聞けなかった。
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