Blossom
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「咲哉クン、ねえ、また遊びに行きましょうよ」
「……愛香先輩。スイマセン、予定が詰まってるので」
「あの子のお世話……? どうしてあんな子に構っているの? ねえ……」
「センパイ。もう貴女とは他人なんです。……俺のやることは、俺が決めます」
「どうして? 私、わからないの……。咲哉クンは私を振ったのに、その後も遊んでくれたし、仲良くしてくれた。なのに……どうして」
「俺にとって、愛香先輩が『キレイな先輩』でしかなかったからですよ。騙しているようなものだったから、俺は関係を戻したんです」
「私はそれでもよかったのに! どうして……っ」
「今は、あの子が俺の一番ですよ。……今度は、あの子を傷つけることになる」
「どうしてあの子なの……? 私だったら咲哉クンと同じくらい踊れるし、容姿も釣り合うって思ってるのに! 少なくとも……そうなるように努力したのに……」
「ごめんなさい。……ごめんなさい。貴女を泣かせるのだけは、心が痛みます。これだけは、本当のことです」
サキは、何をバカやっているんだ。
あの人に素直に言わないのはサキの優しさだとわかっているが、チビはだんだんと、サキに惹かれ始めてる。それこそ、本当の『好き』に――。
彼女の存在を知ったら、どうなってしまうんだ。
今でも、アイツはサキや俺らにとことん気を遣っている。
去年のあの事件とサキの本音を知ったら……。
――考えたくない。
こんなことを思うのは、チビの、あの謙虚な姿に、好感を持っているからだろうか。
彼女に無理やりにでも自信をつけさせることは、できるとは思う。
自分の魅力がわかっていない……。昔のアイツと、同じだから。
そして、それをどうにかしたのは、アイツ自身でもあるが、俺が色々と努力したのもあるだろう。
さあ……お姫様修行を、始めようか。
どうして、サキ先輩は私に構ってくれるんだろう。
それこそ、自分の身を投げうってまで。
彼は楽しそうだった。私もそうだった。
だけど……彼にとって、私とは、なんなんだろう。
琴先輩が、気にするなと言っていたコト。そこには、一体何が隠されているんだろう。
何もないはすがなかった。私にあそこまでしてくれるのに、教えてくれないのだから。
聞いても、教えてくれないだろう。
そこに嫌な予感があることに、私は気づいているから。知りたいけれど、知りたくなかった。
しかし、真実を知らないまま、夢のような甘い時間に流されていちゃいけない。
それだけは、わかる――。
To:笹神 隼
件名:時間がある時に
お話したいことがあります。
時間がある時に、お電話ください。
私は、夜十一時までは大丈夫です。
笹神先輩に聞くのが、一番だと思った。
サキ先輩に秘密にしていちゃいないけど、私には考える時間が必要だと思った。
From:笹神 隼
件名:了解
わかった。 恐らく九時ごろになると思う。
サキたちには、隠しておいた方がいいよな?
私は、感謝と肯定を返信して、ベッドに倒れこんだ。
だめだ……こんな気分じゃ、感傷的になっていちゃ、上手く何も言えなくなっちゃう。
気分を解消しようと思って、目を閉じた。
「もしもし。笹神だ」
「……こんばんは」
「元気か? ……考えてることは、大体わかるよ」
「はい、大丈夫です……。ありがとう、ございます」
いつも通りの先輩の声が嬉しかった。
彼は、冷静であることで、みんなを安心させてくれる。
「本題なんですが……。あの、琴先輩に以前、聞いたんです。先輩たちが、彼女作らないのは、理由があるって。それって、どういうことなんですか」
「簡潔に答えるとしたら、あることが原因なんだが、お前はそのあることが聞きたいんだろう? ……約束がある。これを聞いても、考えを変えないでくれ。お前が何か考えるのはわかっている。だけど、サキは、お前を傷つけたくないから隠しているんだ。……俺も、自らそんなことは、したくない。俺たちがお前に言ったこと、サキがお前にしてきたことは、全て、本当のことだと、それを忘れないでくれ」
笹神先輩の声は、いつもより、息が詰まっているように感じた。
先輩も、本気だ。私だって……。
「わかりました。……お願いします」
サキがモテるのは昔からだった。
俺とサキが幼馴染みなのは聞いただろう? それで知っているんだが。
だが、アイツが今みたいに余裕たっぷり振る舞うようになったのは、つい最近なんだ。
アイツは、かなり鈍感で、自分の魅力をわかっていなかった。だから、誰にでも異常に優しくしていて、色々と勘違いされることも多かったんだ。
それもあってか、かっこよくてモテるのに浮気性、みたいな噂が絶えなくて、中学の頃は、校内に彼女はいなかった。
外に作っていたかどうかは、知らなかったが……。
サキや俺が高校一年、だからちょうど去年、俺らはもちろん、男子ヒップホップ部に入った。
その時、俺とサキ以外の二人とは、互いに知り合っていなかったな。
去年の……六月くらいだったか。サキが、当時二年生だったダンス部の先輩に告白された。
サキは、初めてのことだと、言っていたな。相手はそんなこと、知らなかっただろう。
アイツはどこまでも、優しさ、自分の良心に素直だったよ。素性も知れない、ただ媚びた女と付き合って、自分を好いてくれる彼女を好こうとした。
相手は、そんなもの求めちゃいなかった。そもそも、サキを好いていたかも微妙なところだった。
そして、いつまでも変わらないサキを、『期待はずれ』だと言って振った。
サキは、「わからない」と言っていた。素直なアイツは、自分に素直になることしかできなかったんだろう。彼女を好けたはずがない。
それだけで終わっていたら、サキが、ちょっと色恋沙汰にトラウマがあるというだけの話になっちまう。……まだある。
その先輩が、男子ヒップホップ部の当時の二年に……サキに酷いことをされたと、嘘の通報をしたんだよ。
勿論無実だ。サキは何もしていない。これだけは、俺もこの目で確かめていたよ。
三年は、俺らのことは端からいけすかねぇと思っていただろうな。だから、俺が何を言っても聞いちゃいなかったよ。
こんなこと、校内であっていいはずがないが……サキが、三年に呼び出されて、ボコられた。
サキは、抵抗しなかったんだよ。何も言わなかった。主張もしなかった。
だから、アイツの無実を認めるヤツなんて誰一人いなかった。
名誉を汚されても、サキは何も言わなかったし、ましてや仕返しすることもなかった。
俺らまでサキとつるみにくくなって、アイツ一人が孤立し始めた頃、サキの元に一人の先輩が現れた。
彼女の名前は、篠田 愛香(しのだ あいか)。当時、ダンス部二年で、一番キレイだと噂されていた美人だ。
愛香先輩は、サキが無実だと、認めていた。
サキ自身から聞いた訳でもなく、小耳に挟んだ俺の主張と、嘘の通報をした女の行動を見て、そう判断していた。
そして、割とダンス部内、また男子ヒップホップ部内で発言権があったから、サキの無実を色々な人に主張した。
彼女の言うこととあれば、無視することはできなかったんだ。
だから、サキの無実はほぼ証明されたも同然だったんだが……。
男子ヒップホップ部の先輩に、難癖をつけられた。愛香先輩を、サキがたぶらかしたに違いないと、そういう噂が広まった。
サキは、今回ばかりは反発したよ。そうなると、愛香先輩の立場までもが危うかったからな。しかし、意味がある訳ではなかった。
愛香先輩は、何となく部内で敬遠されるようになって、孤立してしまった。
その時、サキはすごく責任を感じてしまっていたさ。
付き合った女の気持ちに応えられなかった、というのと、愛香先輩の好意を無駄にしただけでなく、無関係の彼女を、結局は貶めてしまった、と。
サキは、何度も何度も彼女に謝っていた。見られるモンじゃなかったよ。アイツはしばらく、何もかもを捨てて、愛香先輩への謝罪に明け暮れていた。
そこで、何があったのかは知らないが、孤立した者同士、付き合うことになっていた。
愛香先輩は、サキに好意を抱いているように、その時俺は初めて感じたな。
それで……文化祭で、ペアで踊ったんだよ。
サキの実力は知っているだろう? 愛香先輩も、なかなかのものなんだ。そして、二人の『お似合い』と言わざるを得ない容姿。
二人のペアはすごく高い評価を得た。付き合い始めてから、サキもなんとなく充実していたんだろう。俺らとの方も成功して、その影響で、ダンス部二年が、また媚びを売るようになった。
そこで、サキがやらかしちまったんだよ。
愛香先輩との関係は、全く断っていなかったにも関わらず、せがまれて、キスをしたんだ。
アイツは、そこでやっと気づいたんだと。
愛香先輩が相手じゃなかったとしても、何も変わることはない、と。
ただ、孤立した者同士、傷を舐め合って、また、自分を確実に擁護してくれる彼女と付き合って。
所詮は、自己の利益のために保たれた関係以外に、特別なものは何もないだけなんだと。
だからサキは、愛香先輩を一度傷つけてしまったにも関わらず、また傷つけてしまうことになりかねないと思って、一部の本音を隠して、先輩を振った。
それを知った部長――葉山先輩に、最低なヤツ、と言われて、サキは誓った。
……「もう誰も傷つけない」と。
「破ったらやめろよ、と葉山先輩に言われたサキは、それからじっくり自分を見つめ直して、あんな感じになったって訳だ」
葉山先輩の発言はもっとも、と言わざるを得ないだろう。常識的な考えだ。むしろ、優しい方かもしれない。
サキ先輩は、ひとつも悪いことをしていないんじゃないかって、ひいき目に考えてしまうけれど。
結局のところ、一番根元にあるところでは、サキ先輩は、何もしていなかった。
「サキが彼女を作らないのは、本当に『彼女』という特別な存在であるかがわからなくて不安だというのと、まだ謝りきれない愛香先輩への気遣いと……やっぱり、誰も、傷つけたくないからだ」
私は、別に、先輩の彼女になりたい訳じゃないから。
きっと今でも気遣って関係を保っているであろう、『愛香先輩』という存在も、気になるけれど、気にするべきじゃないんだろう。
少し心が揺らいでるのは……少しの羨望と、少しの後ろめたさだろうか。
サキ先輩は、私を構う上で、私が思っていたよりも、リスクを抱えているんだ。
私が彼女になりたいだなんて思ったら、彼は頭を悩ませなくちゃいけない。
だから、伝えてしまおう。別にいいって。私は今の状況で満足だって。 それ以上は、彼自身が決めることに違いないんだ……。
「俺らは、そんなサキへの気遣いだよ。どうしても作りたいという状況になっていないのが、現状だが」
もしかして、彼らの間にある信頼関係は、これで成り立っているんじゃないだろうか。
お互いへの気遣い。それも、重苦しい感じじゃない。
尊敬を集めるサキ先輩と、彼を気遣う他の先輩。
上手く釣り合っていると、いえるんじゃないか。
「どうだ……思っていた以上に、アイツがいかに不幸なヤツかがわかったと思う。……一つ忠告なんだが」
「えっと、はい」
「葉山先輩。アイツには、気をつけた方がいいぞ。マシな人間だと思ったかもしれないが、先輩たち全体をサキをボコるような雰囲気にしたのも、愛香先輩を孤立させるように仕向けたのも、アイツだ。――部活見学の時、あの男は最初、お前を本気で食うつもりだったぞ。ともかく、アイツはサキに対して尋常じゃない程の憎悪を覚えているから、非道なことを平気でやる。今まで、他の先輩に食い止められていたが」
『でも君、わかってんのか? 松岡のワガママに付き合う必要はないって……。自分の意思で行動できないマネジなんて、いらねぇんだケド』
今、あの言葉をよく思い返してみると、そこには、サキ先輩への苛立ちのようなものが見えた気がした。
私は、あの人に貶められないように、気をつけなきゃならない。
「今の話で、なんとなくわかったか」
「……何が、ですか?」
「サキにはちと辛い過去があるが、お前をあんなに気にかけているのは、自分自身を試しているのも、あるんだよ」
試している……?
どういうこと、だろう。
「言ったろ。本当に『彼女』という特別な存在であるかがわからなくて不安だって。それを確かめているんだよ。そして、お前にどこまで自分を捧げられるかを。アイツ自身だって、自信がないんだ」
私は、彼女なんかじゃなくて、いいんだって……そのはずなのに。
この言葉で、少しのもどかしさを感じてしまった自分が憎たらしかった。
「わかってないみたいだから言う。サキにとって、お前は実質上のオンリーワンでナンバーワンだ。それを理解しろ。サキは今、お前を傷つけないためだけに、自分自身を試している。お前が、その気かどうかも、本当は自信がないのに」
あの余裕の笑顔で、憎らしいほどずるい笑顔で……?
私は、何を伝えればいいんだろう。
彼女じゃなくていいなんて言ったら、彼は傷つくんだろうか。
でも、私は……。
「なァ、お前、自分の魅力をわかってないんだって。『どうして自分が』って、ずっと思ってるかもしれないが、お前の魅力は、目に見えないところも含めて、飛びぬけてるように俺は思うよ。サキもそう思ってるだろうよ。不安なら、聞けばいい。ただ、今、サキに伝えていいことは、お前自身の、本当の気持ちだけだよ」
私の、本当の。
それは、私が今さっき思った、「彼女じゃなくてもいい」ということが、嘘だと言っているかのような言葉だった。
言葉に詰まって、俯いてしまう。
わからないよ……本当に。
「わかるさ。……これからが、大変だろうから」
私を元気づけるように笑った笹神先輩の声が、耳を通り抜けていく。
「そう……ですか。あの、ありがとうございました」
納得できないと言うよりは、わからない。
わかったけれど、それが本当じゃないって、彼はそう思っているようで。
「桃歌、元気だせ」
最後に、名前を呼ばれたことが、一番の元気付けになっていたかもしれない。
サキ先輩は、私が特別な存在であるかどうかを見極めていると、笹神先輩は言った。
そのことが、わからなかった。
最初から、サキ先輩がどうして私に声をかけてくれたのか、わからなかった。
彼は私を、舞台の上から見ただけなんだ。それも、彼を目で追っていたと言っても、ほとんど動くこともなかった私を。
それだけで、どうしてあそこまで私を大切にしてくれて、気にかけてくれるのか。
笹神先輩の話を聞いてから、その疑念が、より一層強まってしまった。
こんなことを思うなんて、サキ先輩を疑っているのと同じような気がするのに。
「あーれ、水瀬いないね。どこ行ってんだろ、アイツ」
中庭に下りてくるとき、たまたま琴先輩と会って、一緒に下りてきたけれど、中庭には芳花先輩の姿だけ見えなかった。
「アイツ、昼休み始まった時にふらーっとどっか行っちまったな。何してんだか」
いつも通り、笹神先輩がお昼の準備をしていて、サキ先輩は何やら本を読んでいるようだった。
あれ、珍しいな……。
何を読んでいるのか気になって、彼の近くに行くと、サキ先輩は慌てて本を閉じた。
「何読んでたんですか?」
「え、えーと……マンガ」
私から目を逸らして、ちょっと気まずそうに彼は言った。
何を隠すことがあるんだろうか。
そう思っていたら、琴先輩がこっそり教えてくれた。
「サキが読んでんの、少女漫画」
しょ、少女漫画……。
私でさえ手をつけたことのない、あんなものを……。
いや、女子高校生にもなって、今まで一度もないというのも、大分特殊ではあるかもしれないけれど。
一体全体、どうして。
「うー……。いや、さ、女の子の憧れっていうのを知るのもさ、大事かと思いマシテ」
ちょっと頬を赤く染めて言うサキ先輩は、ちょっぴりかわいく見えた。
悪いことでは、ないかなぁ。あんな話を聞いた後では、そんな先輩が健気に見えた。
「そう、水瀬。水瀬呼びに行かなきゃな。桃歌チャン、一緒に行こうか」
話を逸らすように切り出したサキ先輩に頷いた。
まあ、そんなに気にすることでもなかったんじゃないかなぁ。
サキ先輩が、あまりにも少女漫画の男の子的行動をしすぎたら、それは犯罪とも言えるほどにずるくて素敵なのだろうけど。
「女の子とかと話してんのかな。そんなことも久々だからなぁー」
そういえば、芳花先輩は女の子好きっていうイメージがある。実際そうなのだろう。
話を聞いたのと、私が思うには、芳花先輩の方が女の子との付き合いは多いんだろうな……。
「去年はもっとアイツ、ファンの女の子とかと遊んでたし、色々軽かったけど、最近はその気ないみたいだね。良いこと……かな」
二年生の教室の前まで差し掛かったとき、廊下の突き当たりに、芳花先輩の後姿が見えた。
サキ先輩が、歩く足を止めた。
不思議に思って見上げると、彼は険しい表情をしていた。
私の手をとると、後ずさった。
え……、何?
「二度目はないから」
芳花先輩の声が廊下に響いて、確かに聞こえた。
遠くて何が起こっているのか見えなかった。
でも、見えてしまった。
彼が、女の人の頬を包んで、顔を近づけるのが。
その瞬間に、あの感覚を思い出した。
あの時の一瞬、あの時のレモンの香り。そして、少しの不安に襲われる。
サキ先輩に顔を背けさせられる。
背けた先の彼の顔は、相変わらず険しかった。
あの時と同じ。すべてが、同じ。何故だかそう思えて、身震いをした。
やめて。私の存在を、これ以上――。
「気にするな……。いつものこと、だから」
私もわかっていたはずのことを、サキ先輩が呟いた。
でも、私は少しだけ、思ってしまっていた。
あの人にとって、私は、少しでも特別だって。
「桃歌チャン。忘れてくれ、アイツのキスなんて。君は、俺の特別だ」
わかってくれるんだろうか。サキ先輩は、私のこの気持ちを。
そう思って、思い出した。
彼は、同じような経験を、させてしまったことがあるんだって。
だから、私の気持ちもわかってくれるのかもしれない。
サキ先輩が、囁いた。
「水瀬にとって、軽いものなんだ。桃歌チャンが、思っているより、ずっと」
あなたもそうだったの?
自分らしくないほどに、疑念の言葉が浮かんでは消える。
動揺する私を、サキ先輩は優しく抱きしめてくれた。
嫌な予感がした。そして既視感。
あまりの運の悪さに、自分を呪った。
いや、知らないままでも、彼女は傷ついただろうか。
自分が、もうずっと愛すると決めた自分が、彼女の特別に成ってみせる。
自分にとって、彼女は特別だから。
――遅れてしまって、ごめんね……。
驚いてはいたけれど、俺の表情を見て、無言で立ち去るアイツ。
アイツは、悪くなんかない。誰も悪くない。
桃歌チャンがショックを受けたというなら、俺が拭ってやる。その不安を、全部。
「ごめんな。あんなところ、見せるつもりなかった」
「…………」
いつもよりも優しく聞こえる彼の声も、今は聞きたくなかった。
あの日の不思議な感触と、レモンの匂い、そして芳花先輩の顔がフラッシュバックする。
どうして私はこんなに動揺しているんだろう。
だって、別に、関係ないことなのに。
自分が、サキ先輩にああいう風に接されるのが、怖いから?
……彼はあんなこと、きっとしないのに。
でも、今回ばかりはサキ先輩も何も言えないみたいだった。
いつもと違って、静かな昼食の時間が、重苦しくて仕方なかった。
放課後になってすぐ、サキ先輩が迎えに来てくれた。
私が寄って行くなり、すぐに取られた手。ぎこちなさのなくなったその手つきに、少し複雑な気分になった。
「桃歌チャン、今日は二人で帰ろう」
そう言って、真っ直ぐ昇降口へ向かう。
サキ先輩も、考えたくないのかな。今日のこと。
「なあ、俺は、本当の本当に、桃歌チャンが好きだからな」
「……はい」
信じてるのに。信じてるはずなのに、どこか疑ってしまっていた。
いつもの帰り道をゆっくり歩きながら、サキ先輩は何度も私に告げた。
だから、彼がどれだけ私を好いてくれているかわかったけれど、どうしても不安が拭えなかった。
私は、信じたくないの……? サキ先輩が、好きなのに。
「咲哉、何してるの?」
背後から聞こえた女の声にびっくりして、サキ先輩とほぼ同時に振り返ると、そこには、長い黒髪の綺麗なお姉さんが立っていた。
あの……どういう関係なんでしょう。
そう思って先輩を見上げると、彼は慌てて笑って言った。
「実里姉さん。……俺の、真ん中の姉さん。――見ての通り、下校中」
お姉さん……?
彼女の姿を今一度眺めて、目が合うと、彼女は笑った。
わ、わあ綺麗……。
「咲哉の後輩さんかしら? 私は、実里(みのり)。そうそう、四姉弟の二つ目」
ということは、サキ先輩にはあと二人兄弟が……?
「えっと、あの、基山 桃歌です」
見つめているこちらが恥ずかしくなるようなほどに美人。
そういえば、サキ先輩の家はお花屋さんなんだっけ……? 花がよく似合いそうな美男美女の子供がいるとは……儲かりそうな。
「桃歌ちゃん、よろしくね。それで、咲哉クンを早々ゲットしたの?」
「え!? え、ええと……」
驚くべきことを聞かれた私は、慌ててサキ先輩に助けを求めたが、彼は私の身体を引き寄せて、後ろから軽く抱きしめた。
……って、先輩っ!
「そういうコト」
そんなこと言っちゃっていいんですか、先輩……。私は、彼女でもなんでもないのに。
実里さんは、私達を見ておかしそうに笑った。
「咲哉が積極的だなんて、珍しいのね」
……そうなんだ。私は、知る由もないことだ。
「桃歌ちゃん、この後、時間あるかしら? 是非、私たちの家に来ない?」
「え、えっと」
いいのかな。私は暇だけれど……。
再度サキ先輩を見上げると、彼は軽くウィンクをした。
えっと、いいのかな?
「お邪魔でなければ」
そう答えると、実里さんは満足そうに笑った。
「よかった。今日はみんないるのよ」
ほ、ほんとにお花屋さんだ。
街中でよく見かける、あの外観。
どこか、サキ先輩のあの匂いと似た匂いを感じる。
「何かあったら、是非買いに来てね」
実里さんが優しく笑って言ってくれる。
サキ先輩は、先ほどからあきれたような、楽しそうにも聞こえる溜息を漏らしていた。
「ただいま」
「お邪魔します」
お店の奥から階段を上っていくと、ごく普通の階段があった。
家の中も花の良い香りで満ちていて、芳花先輩が、サキ先輩のお姉さんが香水を作っているという話をしてくれたことを思い出した。
前を進む実里さんに続いて、サキ先輩と並んで歩く。
「先輩のお姉さん、綺麗ですね」
「あぁ……男友達を家に呼べない程度には」
冗談交じりに言った後、隼は別だけどね、と付け足したサキ先輩は、どこか誇らしげだった。
廊下を進んで行き、広いリビングに着くと、そこにはサキ先輩のお姉さんらしき女性が二人。
片方は、ふわふわの肩までの茶髪をした、ちょっと幼く見える人で、もう片方は、実里さんとよく似た黒髪を、ポニーテールにしていた。
「サキの彼女!? かわいい!」
そう言う彼女の明るい笑顔は、なんだかホントに笑顔を誘う、太陽みたいで、すごくかわいかった。
いくつなんだろう……一見同い年くらいに見えるのだけども。
「こっちが凪咲姉さん。で、あっちが美咲姉さん」
苦笑しながらサキ先輩が教えてくれた。
「基山 桃歌です」
「あたし、凪咲(なぎさ)。サキの二個上で、大学で園芸勉強してます!」
「私は美咲(みさき)です。咲哉の……えーと、二十三歳で、うちの花屋手伝ってるの」
二人は親しげに笑いかけてくれた。横にいる実里さんも、サキ先輩も、皆が皆美人で、改めて見渡すと、天国のようだった。
「ねえねえねえねえ! 桃ちゃん、サキの匂いわかるよね? あのね、サキの匂いそっくりの香水、つけてみようよ!」
凪咲さんに手をとられて、リビングから連れ出される。
ご、強引なところがどこか似ているというかなんというか……。
それにしても、サキ先輩の匂いみたいな香水とは……。
やっぱり、芳花先輩の言っていたように、体臭なんだろうか。
連れて来られた部屋は、かわいい家具がたくさんある部屋で、凪咲さんの部屋のようだった。
「サキ、良い匂いするよね。たまにだけど。あれをね、再現しようと、美咲姉さんと頑張って早10年なんだけど、ダメなんだよ〜」
そう言いながら引き出しの中の小瓶を取り出して、私を椅子に座らせてくれた。
「でも、結構いい線はいってるんだ! 桃ちゃんも、あの匂い好きでしょ? ぎゅってした時に、幸せな気分になるよね」
「えっと、そうですね」
事実だけど、何て答えればいいのか全然わからないや。
でも、凪咲さんは話しかけてるだけで満足みたいだから、軽く相槌を打っておくだけでもいいのかな。
「ちょっとごめんね」
腕まくりをされて、肘辺りに香水を吹きかけられる。
一瞬、花の香りがした。
「お母さんとか、隼君とかにも協力してもらって作ってるんだけどねー。香水としては、もうかなり良いものだと思う」
ほぼ無意識的に腕を嗅ぐと、確かにサキ先輩のあの匂いみたいな匂いがした。
これは、確かにそっくりだ。
「すごいですね」
そう言うと、凪咲さんはでしょ、と笑った。
「さー、戻ってサキにお披露目としますかね」
そう言いながら彼女は楽しそうに鼻歌なんて歌っていた。
「サキのこと、どれだけ知ってるかわかんないケドさ、聞きたいこととか、相談したいことがあったら、連絡してね。……あの子、いろいろと難ありだから」
凪咲さんにもらったメモを握り締めて、私たちはリビングに戻った。
「はいただいま! ほら、桃ちゃん」
凪咲さんに背中を押されて、サキ先輩に近づく。また、あの香りが鼻腔をかすめた。
顔を見上げると、彼はおかしそうに笑って、私の肩を引き寄せた。
「俺、自分の匂いわかんないケド……なんか、嗅ぎ慣れた匂い」
そう言って、私の頭をそっと撫でた。
でも、そりゃあ凪咲さん達が何年も作ってきたなら、嗅いでいるだろうなと思った。
「咲哉に懐かれてるんだね、桃歌ちゃん」
美咲さんが微笑みながらそう言った。
懐かれてるって言い方はいかがなものだろうか。
「桃歌チャンとくっついてると、やっぱ、安心する」
私も、だなんて今は言えない。だって、離れられなくなっちゃうから……。
気がつくと、彼に対する不安は消え去っていた。私は、こんなにも自然に、サキ先輩の側にいられる。
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