Blossom
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「ねえ、隼クン、今度料理教えてよ。アタシ、全然料理できないの」
廊下の角を曲がったら向こうの方から聞こえてきた、媚びた女の声。
嫌な予感がする。冗談抜きで、何だか身の毛がよだった。
『隼』って、笹神先輩のことじゃあ……。
「あぁ……また今度なら」
私がこっそり角の向こうで聞き耳を立てていたら、案の定笹神先輩の声がした。
ちょっと覗いたら、気づいてるのか、ちらっと視線を配せてきて、私は慌てて向こうに隠れた。
……先輩の声、嫌そうだな。
相手は、ダンス部の三年生だろうか。
紗奈にちょっと聞いた話で、ダンス部三年が男子ヒップホップ部二年に媚び売っていて、男子ヒップホップ部三年がダンス部三年にちょっかい出してるとかで……。かなり、複雑な関係があるみたいだった。
「隼クンは、水瀬みたいに頼んだらキスしてくれるの?」
私は、そんな言葉が聞こえてきた途端に、壁の向こうで跳ね上がりそうになった。
芳花先輩が……何だって……?
全てが信じられないというか、聞き間違えじゃないかと思い込みたくなった。
どういうことなの……?
「……スイマセン、お断りしてます」
しかし、低く冷静な響きの笹神先輩の即答に、私は安堵した。
いやいやいや、これがフツウだよ。そうに違いないもの。
「――そんなこと言わないでよ。ねぇ……たまにはいいでしょう?」
懲りずに食い下がった女に、私は少しどきっとすると共に、苛立ちを感じた。
私が笹神先輩だったら……嫌わないハズがない。きっと彼も本心では、物凄くめんどくさいとかうざったらしいとか思っているに違いない。
「ヤ、ホント、俺キスとかダメなんで……」
焦った声色の笹神先輩が心配になってまた壁から顔を出して覗くと、女が笹神先輩の……物凄く近くまで迫っていた。
見ている私が恥ずかしくなっちゃうよ! いや、それよりも、この場、どうしよう。
私が出て行ったら確実にあの女に攻撃されるだけだし、かといってここを離れる訳にもいかない。
笹神先輩は手を出さないだろうから、このままじゃ……。
「――友里、笹神とナイショバナシか?」
新しい男の声がした。
もしかして……三年生じゃ。松岡先輩たちにつらく当たってると言うから、あまりいい印象はないけれど、今だけは感謝をしたい。
「そうね……そう。……卓、帰りましょうか」
少しの沈黙の後、諦めたような女の声が聞こえた。
足音が近づいてきたから、私は慌ててあちらの方から来たかのように見せかけるためにその場を少し離れた。
二人の男女とすれ違うとき、物凄いどきどきしたけれど、二人から浴びせられた視線は、別の意味だけ持っていたみたいだったので安心した。
角を曲がった時、笹神先輩は私を待っていたかのように口端を上げて問うた。
「……どう思う?」
「……は、はい?」
「だから、どう思うかって」
彼の質問は、具体的にどこを指していたのかわからなかったけど、私は思ったことをそのまま口にした。
「大変ですね……っていうのと、あの、キスがダメって嘘……ですか?」
言い切るのを待たずに、言葉の後半を聞いた途端に笹神先輩が噴き出した。
「ははっ、さすがに観点が違う……というかなんというか。あぁ、マジメに答えておくと、別にダメとかそういうワケはない」
あ、あれ、違ったかな。
笹神先輩の笑顔はほとんど苦笑だったけれど、やっぱり綺麗で、ちょっと見とれてしまった。
「こういう関係のことな。三角関係……というワケでもないんだが。俺は、滑稽だなぁ、と他人事みたいにそう思う」
その真っ直ぐで真っ黒な髪をいじりながら、私から目を逸らすように、彼は言った。
先輩たちは……一方的に害を受けているだけのように、私は感じるけれど。きっと、三年生からひがみばっかり受けているんだろう。
ダンス部が勝手に言い寄ってきて、それに言いがかりをつけられて。
……『イケメンすぎるのも困る』ってやつかなぁ。
「……先輩たちは悪くないですよ」
そう言うと、笹神先輩はひとつ息を吐いて言った。
「……そうでもないがな。実際、サキの権力の振りかざし方は、目に余ることが少なくない」
彼の伏せられた長い睫毛が、より深刻な雰囲気を醸し出す。
松岡先輩が……そんなことって。
「チビ、お前のことは俺たちの誰が言っても聞かないと思う。やりすぎだと思ったら言ってやってくれ。――何しろ、少し言葉を違えただけでアレだから、お前に何かあったりしたら、どうなるかわかったモンじゃない」
守られてるだけじゃダメというより、守らせすぎちゃダメ、ということだろうか。
確かに、既に、松岡先輩はあまりに敏感になりすぎている気もしていた。
桃歌の名前を呼ばせたくない、というのが一番顕著だった。私としては、桃歌が一番嬉しかったのだけれど。
「ん、ちょうど今から帰る。サキのとこ行くか」
「私、カバンとってきます」
走って行こうとしたら、笹神先輩が無言で後をついてきていたので、歩くことにした。
「あの……。どうして、先輩たちは三年生の先輩と関係が悪いんですか?」
直接聞いたことでもないのに、やっぱり気になって訊いてしまう。
笹神先輩は、少し驚いたように目を開いて、頭をかきながら言った。
「……お前はやっぱり知ってるか。俺は、サキの暴君っぷりと、水瀬のタラシが先輩の気に障ってると思ってたんだが、最近はそうでもないみたいだ。自分でも言うのは気が引けるが……モテるってことらしい」
やっぱり、そうなんだ。
少しの間だけど接していてわかった。彼らは、必要以上に着飾らないし、気にするようなこともしない。
「サキな……そういうのもあって、あんまりベタ褒めしすぎるとどんどん機嫌悪くなるから気をつけろよ。――まあ、そのとばっちりが飛ぶのは大体水瀬だが」
また、乾いた苦笑いをした笹神先輩は、思い詰めているようには見えなかったけど、苦労してるのはきっと事実だろう。
「もし……私が原因で何かあったら、遠慮なく見捨ててください。私は、先輩たちが辛い方が、嫌です」
そうだ、そうだよ。
元から、遠くで見られるだけでも奇跡みたいなもの。
俯いていたから、気がつかなかったけれど、顔を上げたら笹神先輩は怒ったような顔をしていた。でも、それは怖くなくて、優しかった。
「そういう風に思ってくれてる女の子を、男四人がどうして見捨てる? ……そういうことは、言うな。サキは、昼休みのあの一言でも大分参っていたぞ」
『私なんかに、声をかけないでくれれば……っ』
全然、考えなしに言ってしまった一言だけど。自分が気をつけるのが、一番に大切なのかな……?
彼らが、私を擁護することに、何らかの苦悩が伴わないはずがない。
「覚悟はサキ本人に訊け。俺たち三人は、サキの決意には従うって決めた」
口を開きかけたら、やっぱり笹神先輩には先取られてしまった。
せめて、彼らを傷つけない言葉を、探さなきゃ。
「や。桃歌チャン」
昇降口まで、笹神先輩と一緒に下りたら、一瞬松岡先輩は笹神先輩を睨んだ。
「サキ、桃ちーびびってるから」
軽いノリで言ってくれる千種先輩の心遣いが嬉しかった。
相変わらず芳花先輩は知らんぷりみたいな態度だけど、先ほどの笹神先輩の言葉には、彼も私の味方でいてくれるという意味も混ざっていた。
急に松岡先輩が歩み寄って私の右手を握った。
「帰るよ」
緩めた表情に乗せた笑顔が、複雑そうだったけれど、私は気にしないことにした。
だけど……この右手は。
「あのー……」
何とか拒否をしようかと思ったけれど、やっぱりできないよ。
まだまだ全然、下校する生徒のピークだから、突き刺さる視線が痛い。
意外にも皆が、私のことをそう悪くは思っていないのはわかったけれど、それでもやっぱり素直にベタベタするのは嫌だった。
「いいだろ、別に恋人つなぎでもないんだから」
芳花先輩がさりげなく耳打ちしたけれど、そういう問題じゃない……。
と思っていたら、聞こえていたのか、松岡先輩がにやりと笑って指を絡めてきた。
は、恥ずかしいっ!
どうにかしようと、でもどうにもならなくて、一人焦っていると、松岡先輩がはは、と笑った。
「ごめんごめん。からかった」
でも手は離してくれなかった。
観念して歩き出そうとしたら、今度は松岡先輩が驚いたような顔をした。
最初に手つないできたのはそっちなのにっ。
すぐに満面の笑みを向けられて、ちょっと腹が立っていた気分も一瞬で吹き飛んでしまった。
なんて無邪気なんだろう。かっこいいのに、何だかそれとは不釣合いな言葉が浮かんでくる。
不思議だなぁ。彼といると、周りの目も無視できるのは、別の意味なんだろうけれど。
「……あの、松岡先輩」
「……あのさ、サキって呼んでくれないか」
「え!? あ、はい……。サキ、先輩」
サキって言うと、女の子みたいだなって思ってたけど、そっちの方が好きなのかな。
でも確かに、この三人も全員例に漏れずサキ、と呼んでいた。
「うん。何?」
満足そうに答えた先輩に、少し言いづらくなる。
「あの……私なんかと、関わっちゃって、大丈夫なんですか」
後ろめたさが、言葉を変えてしまう。
違う、違うってば。考えたはずなのに。どうして出てこないんだろう。
「桃歌チャン、俺は君が好きだよ」
急にそんなことを言い出すから、私はびっくりした。
でも、声はいたって真剣だから、素直に受け止めないのは失礼かなぁ……。
「だから、大丈夫かは問題じゃない。迷惑をかけてしまうのは俺の方だ。俺が、俺と皆が桃歌チャンを守るよ」
見つめられた瞳が、逸らしてしまいたくなるほどに真剣で、深かった。その茶色が、夕焼けの赤に照らされて、混ざり合って、綺麗に見えて。
「あ、りがとうございます」
きっと、こう言うのが正しいんだ。受け止めないと、また彼を傷つけてしまう。
私は、これ以上彼を傷つけてはいけない。
そういえば、彼は初めて私に話しかけてきた時、おかしなことを言っていなかっただろうか。私がサキ先輩に惚れたとかなんだとか――。
それって、どういうことだったんだろう。
いや、少しも惚れていないと言ったら嘘になるけれど、彼はそう断言した。
その目的って、何だったんだろう。少し心当たりがなくもないけれど、何だかそれを言ったら、彼を傷つけはしないけれど、少ししまっておきたくなるようなことだった。
忘れてしまって、いいのかもしれない。
もし、いけないとしたら、彼が覚えている。そして、私にいつか伝えてくれるだろう。
だから、今は気にしなくていいのかな。
「桃歌チャン、物は相談なんだけど」
「……あ、はい!?」
こうして一人で考え事をしていた私は、サキ先輩の急な一言に必要以上に驚いてしまった。
はっと我に返って、右手には彼の大きくて温かい手があることを思い出して、少し恥ずかしくなる。
「マネージャーやらない?」
頭一個分は楽々ある身長差の中、彼は私を見下ろして笑いながらそう言った。
え、えーと……。
「それって、男子ヒップホップ部の、ですか」
「うん。まぁ、俺らの近くに置いておきたいっていうだけなんだけどさ。悪いコトでは、ないと思うよ……?」
ちょっとイタズラっぽく笑って、サキ先輩は私の返答を待った。
女の子に大人気な彼らのマネージャー志願って、たくさんいないのかな……?
それに、私はお母さんが許してくれるかどうかが。
「あのな、マネジ志願はたくさんいるんだけど、三年がほとんど全部弾いてるのよ。主に顔で」
芳花先輩が面白そうに言って、千種先輩が頷く。
じ、自由だなぁ……。
それなら、私がなれるかどうかなんて、わからないんじゃないかな。
「あー、でもね、俺ら、三年に一人だけ味方いるし、ま、部を纏めるのは俺らだから、ダイジョーブだと思うよ。……それに、桃ちー、俺らのことなかったら無条件でオーケー範囲内だと思う」
千種先輩がまたフォローしてくれ――って、今回ばかりはマネージャーになることがいいとは私はまだ思っていないのに!
だって……確かに他に特にやりたい部活もないけれど、何かこんなに男の人に囲まれすぎるのも、精神的に疲れるというかなんというか。
「俺らの近くにいた方が、他のヤツらもお前や俺らに手出しにくいと思うぜ?」
先ほどの会話の効果もあって、笹神先輩の囁きがかなり心に来た。
……そっか。
ここは、一応頼まれごとでもあるし、引き受けておいた方がいいのかもしれない。
「でも……お母さんが許してくれるかどうか」
お母さんは、部活には入りなさいと言っていた。
元々、男関係なんて皆無だったから、そのあたりどうなのかわからないけど、男だらけのところで少数の女の子と一緒に部活をやっていくなんて、許してくれるのかな……。
「俺が頼みに行くよ?」
何事もないような顔でサキ先輩がさらっと爆弾発言をしたので、私は思わず右手を離してしまった。
「そ、そそそれはだめですよ!」
だって、それって、ウチに来るってことじゃない。余計ダメな感じが既に想像できてしまう。
サキ先輩の行動力には脱帽どころか、最初に持った恨みもやっぱり覚える。
「……だめなの? んー、じゃあ、どうするか……」
素直に聞いてくれるところだけには、感謝するばかりであったけれど。
「あら? 桃歌?」
何だかサキ先輩がぶつぶつ言っていて、笹神先輩が無表情で私を見据えていて、それを面白そうに芳花先輩が見ている、というなんとも微妙な空気の中、聞き慣れた声が飛び込んできた。
え……、えぇ!?
「え、あ、お、お母さん!?」
どどど、どうしよう。
何だか波乱万丈の一日だったけれど、ここに来て本日一番の焦りを感じた。
先ほど右手を離していたことに安心して、後ろにいたお母さんの前に出てくる。
「帰りよね? ……ちょっと、このイケメンな男の子たちは誰?」
そう言うお母さんの顔はあからさまににやけていて、一番に心配したことは大丈夫……かなぁ。
「あ、うん。えと、えーと……」
な、なんて説明しよう。
高校初日でこんなビッグな先輩ができる、普通な言い訳が全然思いつかない。
「桃歌さんの高校の二年生の、松岡 咲哉です。よろしくお願いします」
「……笹神 隼です。」
「芳花 水瀬っすー」
「千種 琴吹です」
一人でわたわたしていたら、サキ先輩が自己紹介を始めてくれた。必要以上に丁寧な気もしたけれど、お母さんは満足のようだった。
「へぇー。先輩じゃないの。桃歌の母です。よろしくね。……で、初日から、部活の先輩でもないでしょう? 一体どんな関係が?」
「えーと、うん。何というか、仲良くさせてもらっているというか――」
「僕は、桃歌さんを男子ヒップホップ部のマネージャーに勧誘しようと思って。僕と彼らは男子ヒップホップ部なんです」
松岡先輩が、私に見せるものとは少しだけ違う、いわゆる「営業スマイル」的な笑顔をお母さんに向けて、丁寧に説明する。
あぁ、さすが、口も上手い……。
「あら、そうなの! こんな綺麗な男の子たちと部活できるなんて、羨ましいわあ。私は大賛成よ!」
お母さんはすっかりテンションが上がってしまったのか、柄にもなく私の肩をばしばしと叩きながら物凄く満面の笑みを浮かべている。
あは、あはは……。
私は苦笑いすることしかできなくて、何だかもう、どうにでもなれ! という気分でもあった。
「それじゃ、桃ちーがマネージャーになれるように手配しとくよー」
千種先輩が、お母さんを見て笑いつつそう言った。
そっか、何だか、三年の味方というのは、千種先輩のお友達か何かみたいな言い方だったものね。
とりあえず、男子ヒップホップ部のマネージャーになってしまう流れだけれど、他のマネージャーはどうなるんだろう。仲良くできそうな女の子がいいなぁ……かと言って、一人は嫌だもの。
「それじゃ、買い物の終わったお母さんは若い人たちと一緒に帰りましょうか」
そう言って、お母さんはスキップなんてしながら私たちの集団に加わった。
もう、この状況で手なんて絶対つなげない……。
「アレ、桃歌チャン、そっちなの?」
駅の中で、ホームに行こうとしたら、サキ先輩たちとは、逆方向だったみたいだった。
ここまで、一緒というのも少し意外だったのだけど。
「あ、はい。……今日は、ありがとうございました」
「ありがとうね。こんな子によくしてもらって」
お母さんも便乗して笑った。
「いえ。……じゃあね」
今日、見られるサキ先輩の最後の笑顔だろう。
何だか少し名残惜しくなってしまったけれど、これは夢じゃないんだから、明日また会える。
先輩たちと別れて、ホームに向かったら、芳花先輩だけついてきていることに気がついた。
「……あー、基山チャン、俺だけこっちなんだよねー……」
気まずそうに、めんどくさそうにそう言いながら目線を逸らした。
変な色……と言ったら失礼だけど、赤っぽい茶色の髪の毛は、本当に目立つ。
「水瀬君……も男子ヒップホップ部とやらの部員なのかしら?」
お母さんが気を遣ったのやら好奇心やらよくわからない質問を急にしたから、彼はちょっとびっくりしたみたいだった。
「え、あ、はい。さっきの俺含める四人が、男子ヒップホップ部の二年生全員です」
敬語がとことん似合わないなぁなんて思ってしまったけれど、芳花先輩は全然こちらに注目していないから、ニヤニヤしていてもバレなさそうだった。
「へぇー……。水瀬君は、ダンスはやっていたの?」
「まぁ、そうですね。本格的にはやっぱり高校から」
他愛もないのかよくわからないけど、こういう他人行儀な会話の中から、どんどん新鮮な情報が飛び出してくる。
意味のないものばかりだったけれど、お母さんの好奇心は止まらなかった……。
赤っぽい茶色の髪色は、別に校則違反じゃないこと。(何色でもOK?)。芳花先輩が髪結んでいるのは、伸びちゃったからじゃなくて、そういう髪型だということ。サキ先輩と笹神先輩は、幼馴染だということ!
小さなことばかりだけど、彼らの基本的なことをほとんど何も知らなかったから、少し嬉しかった。
「あ、俺、ここなんで。……じゃね、基山チャン」
私たちより数駅前の駅で降りて行った彼を見送って、お母さんは私に笑いかけた。
「で、誰が本命なの?」
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