Argento - ep.02「白金の髪」
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 流れる風と、穏やかな陽の光。それを受けてキラキラと輝き、揺れる木の葉。噴水の水もまた、虹色を作り出している。
 翌日、やはり足はあまりよくならない私は、ユーリアと共に朝風呂に入った後、気分転換に寮にある庭園に連れてきてもらっていた。
 何か予定があったわけではないけど、昨日のハルクやワンダ君の話を聞いた後だから、少し、魔術の練習がしたくてウズウズしていて、それを紛らわすためでもあった。
 ユーリアは自身の用事で私を残して去ってしまったが、私はぼうっと一人で庭園の風景を眺めていた。
 今日一日、ユーリアが用事あるならできることもないしね……。
 しかし、自然とは、こんなに静かなものだったのか。いや、静かは静かでも、こんな風に、不安をも感じさせるような――。
 吹いた風に、髪がなびく。
 庭園は寮の建物と建物の間にあるといっても、休日には訓練所や街の方に行っている人も多く、この辺りは人が通らない。
 しかし、彼は唐突に私の視界に入ってきた。
「やっぱイールちゃんだ。おはよ」
「あ……おはよう」
 背の高い彼が身を屈めて私の顔を覗き込んで、笑う。
 キラキラに光るブロンドは、アイン君の笑顔が本当に輝いているかのような錯覚をも与える。
「こんなとこで何してんの?」
 幸いアイン君は一人みたいだった。まさか誰かといるときに話しかけられなんてしたら、やっぱりめんどくさい。
「暇潰し。部屋にいるのも退屈だし」
 私の隣にさりげなく座った彼に視線を滑らせながら答える。
 こう見ると、やはり彼はカッコいい。足は長くてすらっとしているし、甘い色を持った瞳は女の子にもてはやされそうで。
「……あれ、そっか。足、ケガしてるんだっけ」
 細められた目が、私の足の包帯を捉えていた。
「魔力もないよね。そりゃあ暇だ。ハルクみたいなのがついてたのに、女の子をこんな状態にするなんて最悪だな」
 嘘か、本当かわからない、と言うより、どこまでの程度かわからない。そういった感じのアイン君の言葉に、私は黙りこくる。
 親しみやすいけど、やっぱりこの人は少しだけ、わかりにくい。
「そんなに警戒しないでよ。俺だって多少は良識を持ってるよ」
 冗談っぽく笑った彼の笑顔に、少し気が緩んだ。今はあまり人を疑う気力もなくて。
「ハルクは?」
「アイツ、さっきまで爆睡だったけど、依頼に出てったよ。」
 依頼に出た……ってことは、最初っから実習の次の日に依頼を受けていたってことで。どれだけ余裕なんだ、あの人。
「ケガは大丈夫なの?」
「本人も言ってた通り、アイツは治癒魔術の効きがいいから。ま、それに大丈夫だよ。剣を持って走れれば、後はあまり関係ないみたいだし」
 彼がケガしていたのは肩や胸の辺りだったけど、そういえば私一人担いで帰るくらいはできたんだもんね。……それにしても、ケガしていたのに運んでもらって、ちゃんとそこは感謝しなきゃ。
「イールちゃんこそ、その調子だとヤバくない? 足もだけど、魔力。昨日医務室で会ったときと全然変わってないんだけど」
 笑顔ながらにハッキリとした物言いと瞳の奥の色は本気で、私は少しドキリとする。
「え、嘘……」
 少しは回復していると思っていた。こういう経験はあまりないから、普段意識して魔力を回復させようだなんて思わないし。
 ……やっぱりあの人に頼みに行った方がいいのだろうか。
「ホント。んー……ちょっといい?」
「う、うん」
 肩を広げて、私に了解を求める。何だかわからなかったけれど、とりあえず頷くと、彼は私の肩を抱いて、反対の手をとった。
 そして、何やら手の甲を指でなぞっている。彼の指の跡は、薄白く光っていた。
「こんな感じかなぁ」
 そう言って手を離した彼が書き上げたのは、円の中に様々な図形やシンボル――魔法陣だった。
「目を閉じて」
 言われるがままにする。魔法陣の書かれた手をぎゅっと握られ、抱いている腕の力も強くなる。
 瞬間、柔らかくて温かいものに包まれた。そして、耳に入ってくるのは、木々のざわめき――。
「あっ」
 自然の魔力の感じが、少しだけ戻ってきた感覚。
 私がぱちっと目を開けると、アイン君も身体と手を離した。
「うん、上手くいった。初めてでアレンジだったから、よかった」
「ありがとう……っ」
 それにしても、魔法陣のアレンジ、とは、一体どんなことをしたのだろう、彼は。
「俺みたいな魔法陣術師は大して魔力使わないし、魔法陣見せれば大抵できるから、その辺の捕まえてこれやってもらうのもありだと思うよ」
 ふわぁ、とあくびを一つしたアイン君も、ハルクと同じで、結構すごいんだ……。
 ハルクに聞いた、彼の略式アレンジについて思い出して、私は教えてもらいたくなった。
「ねえねえ、略式アレンジのコツってあるの?」
 髪の毛を撫で付けながら眠そうな表情の彼は、首を傾げて苦笑いをした。
「言葉で説明できないんだよね……。なんだろ。でも、自分のやってることを頭で理解してると、詠唱とかで、『これはいらないな〜』っていうのが出てくるから、それを省いてる、かな。結局、人に教わるもんじゃないし。失敗を恐れずにやってみるのが重要、かな」
 はにかみ顔を思わず凝視してしまって、私は彼の言葉が途切れた途端に目を逸らした。
 彼の言っていることは理解できた、が、略式をマスターする道は遠そうだ。私は溜め息をついて、彼に礼を言った。
 別に、魔術で実力をつけなくたっていい。自然魔術師なんて元々戦闘に特化しているという訳でもないし、私はただ偉大な魔術師になるためにここまで来たわけではない。
 けれど、できることなら、今は精一杯頑張りたかった。それが楽しいし、私がこんなところまで来た理由だ。
「深く悩みすぎてもつまんないよね。イールちゃん、今度一緒に遊びに行こうよ。魔術って芸術みたいなもんでさ、息抜きしてると急にひらめいたりする。――イールちゃん?」
 ぼうっとしていた私は、明るく笑って話しかけたアイン君の言葉をことごとく無視してしまっていた。
「あ、うん、ゴメン……」
 ふぅ、と息をついた彼は、困ったように眉を下げて笑った。
 そして、私の肩を今度は断りなしにまた抱くと、一言呟いた。
「やっぱ休んでた方がいいって」

 身体が、不思議に軽い。晴れてはいなかった気分も、先ほどまでよりは清々しいような――。
 って、ここは……。
 見慣れた天井、だけど少しだけ雰囲気が違うし、違和感のあるにおい。だけど、嗅ぎ覚えがない訳じゃなくて。
「あ、起きた? おはよ」
 と、呑気に笑顔を向けてくる彼が、多分私を庭園からここまで連れ出した。
 ……え。
 冷静に判断を下した脳とは裏腹に、心臓が跳ね上がる思いだ。
「アイン君、ここどこ!」
 身体を起こそうとして、気がつく。動かない訳じゃないけれど、力が入らない。筋肉を使うような動きができなくて、私は諦めた。
「身体を動かすのに無意識に使ってる魔力を封印しちゃった。俺が分けてあげたけど、そのままじゃ絶対良くなんないし。……あ、ここは俺とハルクの寮室。これ、ハルクのベッドだから安心して」
 私を覗き込む彼は、全く悪びれもしていなくて……。やったこと自体は私を気遣ってくれているのだろうが、明らかにおかしい。だって休むなら私の部屋でもいいじゃない。
「安心って……! 何もここじゃなくたって」
 それに、ハルクのベッドって、全然安心の理由になってない。そりゃあ自分のプライベートではないんですよーってアピールなのはわかるけど、二人の部屋であることに間違いはないし、彼のベッドを勝手に使うことに私も後ろめたさを感じてしまう。
 アイン君は目を細めて笑うと、後ろにあった椅子を引き出して座った。
「だって君、ほっといたらまた出ていきそうだし。……でね、俺考えたんだけど、おかしくない? ちゃんと食べて寝たのに、魔力戻らないの」
「…………」
 確かにそうだった。自分ではわかっていなかったけれど、彼は、私は昨晩と魔力が変わっていないと言った。魔力を消耗したと認識している日でさえ、いつもは寝れば大抵は元通りだった。
「診断で変なこと言われたことない? 俺、特別知識がある訳でもないけど、ハルクに相談すればわかると思う」
 髪のことは先生や医者には言っていなかった。やっぱり嫌だったから。
 それ以外は特に何もない。診断はいつも一発パスの健康人だ。
 私は首を横に振ると、真剣な目で聞き返された。
「ってか、ずっと思ってたけど、何か隠してない?」
 さすが、人との交流は多そうなチャラ男。言わなきゃバレることはないと思うけど、勘が鋭い。
 私はなるたけ何でもない顔をしてもう一つ否定をする。
 諦めたアイン君は、溜め息をついた。
「わかんないなー。何かイールちゃんには一線引かれてる気がする。……そういや、俺のことは『アイン君』で、ハルクは『ハルク』だよな。負けてる気がするから俺も『アイン』って呼んでよ」
「えー……うん、わかったわ」
 ハルクと比べて、突拍子もないことを言うし、何考えてるかわからないし、アインとは少し付き合いにくい。
 今だって、急に勝手に私を連れてきて。
 というか、ハルクに相談すればわかる、と言うなら、彼に私が個人的に相談すればいい。アインを通す必要なんてない。
「俺、別に魔力いらないし全部あげたいとこなんだけど、魔力供給慣れてないからできないんだよね〜……。やっぱ、様子見た方がいい? 明日になってもダメだったら誰かに相談した方がいいけど」
 心なしか、心配はしてくれてるけど楽しそうだ。イライラ、というより呆れてきた私は、彼を見て困り果てた。
 とにかく寝ていろと言うならわかったから部屋に帰りたいし、今この状態で誰かに話を聞きに行くのも難しいんだから、私はやる方がない。
「とりあえず自然魔術の先生――」
「や、やだやだ、それだけはやめて」
 あの人にこんな形で話が伝わったら面倒なことこの上ない。絶対アインとか嫌いなタイプだし。
「そうなの? じゃ〜どうしよ。俺の知り合いに……」
 一人ぶつぶつ呟く彼を見ながら、私は不吉にも思える音を聞いた。それは、ドアが開く音。
 目の前のアインが、明らかに動揺した。苦笑いを瞬時に浮かべて、とっさに身構えている。
「ハ、ハルク、依頼は……」
「単なるおつかいだからもう終わったぞ。どいてくれよ、寝た――」
 私の視界に彼が入ると同時に、目がばっちり合った。彼はぽかんとした顔をしたまま、数度まばたきをした後、アインにつかみかかった。
「これ、どういうことだ? お前、俺が昨日言ったそばから――」
 怒りや呆れの交じった表情で、低くも淡々とそう吐いた。それだけで、見ている私も圧倒されるほどの、覇気で。
「おいおい落ち着けって。それ、お前のベッドだろ。あと俺は何もやましいことはしてないししようとしてない。な、イールちゃん?」
 振り返ったハルクの視線を受けて、私はおずおずと頷く。……ちょっと突っ込みはあるけど。
 それを見て一応アインを解放したハルクは、私の近くへと歩み寄ってきた。
「でも何でここにいるんだ?」
「何でかわかんないわよ。庭園でアインと話してたら、いつの間にか連れてこられてて」
 やっぱり身体に力が入らなくて、軽く寝返りを打つように身体を捻らせることしかできない。
 怪訝な表情を浮かべて、ハルクはアインの方を向いた。
「本当にやましいこと考えてなかったのか?」
「うんうん。イールちゃんの魔力が全然戻ってないから心配で、半強制的に休ませようと思っただけ」
 考えてないってことはまさかなさそうだなぁと思いながら、アインの、なんだかんだあまり機嫌のよろしくないハルクの対応には感心した。素直に全部言ったらヤバそうだもの。
「……確かに。そうか、やっぱり……」
 私を再度ちらりとみた彼は、俯いて一人で考え始めた。何か知っているのだろうか。私が今、魔力が戻っていない理由を。
「イール、昨日から今日まで、いつもと違うことをしたか?」
「えっと、医務室でご飯食べたのと、朝お風呂に入ったくらいかしら」
 ハルクは口をきゅっと結んで、難しそうな顔をした。
「アイン、少し外に出ていてくれないか。二人でしたい話がある」
「……いーよ。終わったら呼んでくれよな」
 アインの顔には明らかに不満が浮かんでいたけど、彼はハルクにそれを隠すようににこりと笑みを浮かべた。
 ドアの閉まる音と共に、部屋の中に二人きりになる。
「さて。アインを追い出したのは、他でもない、お前の髪の話をしたかったからだ。魔力が戻っていないことや昨日から今日の状況、そしてお前の髪のことを考えると、一つの可能性が思いつくんだ」
 先ほどまでアインが座っていた椅子に腰掛け、真剣そのものといった表情のハルクは、私を真っ直ぐに見据えた。
 ……どういうことなのだろう。そんなこと、私自身だって考えていないのに。
「以前、魔術書で読んだ内容に、こんなものがある。自然に愛されるあまり、その魔力は直接自然に支配され、自由にできないが、ひとたび自然を味方につければ膨大な魔力を一人で操ることができる。その伝説の自然魔術師は、自然から魔力を供給する、と」
 聞いたことは、あった。この学校の自然魔術の教官であり、私の親戚でもある人物に、ずっと以前に聞かされた話。しかし、それをハルクが今出してきたことに、私は驚きを隠せなかった。
「昨日から今日までイールが月明かりの下にいたのは、俺がお前を学校まで運んでいる間だけだった。月明かりを浴びて輝く髪……お前が、月から魔力を受け取っているとは考えられないか? 普段は毎日風呂に入るから、枯渇することはないが、一度渇いてしまえば、魔力は月明かりを受けないと、自力では作れない、とか……」
 彼なりの仮説をひとしきり述べて、首を傾げるハルク。
 月明かりから、魔力を……。
「その可能性が、ないとも言えない。確かめてみないことには……」
 確かに成り立たないとも限らなかった。今まで一度も魔力が枯渇するなんてことはなくて、ほぼ毎日月が出てから入浴していたから。
「だから、確かめようぜ。今日の夜、一緒に外に出よう」
「……目立たないかしら」
 それだけが心配だった。遠目に見ても人の目を引くものだという自覚がある。学校の敷地内にいる限り、他の生徒が絶対に出入りしない場所には行くことができない。
「大丈夫だ、俺がついてく。足もまだ治ってないんだろ?」
「うん……。でも、ハルクがついて来なくてもいいわよ」
 別に後で頼んでユーリアについてきてもらってもいい。彼女は何だかんだ色々と世話してくれるのだ。
 しかし、彼は一瞬考えた後、ポケットから紙を一枚取り出して私に見せた。
「――そうか、知らないよな。今列車が止まってるんだ。それ、街の外に依頼に行ってる生徒のリストなんだが……ユーリア・ジャトムってある」
 多いとは言えない名簿の名前の中に、彼が言うように、確かにユーリアの名前があった。
 つまり、しばらくユーリアは帰ってこない、と。
「原因不明らしいから、学校の方は依頼先で泊まれるよう手配したとか。……そんなわけで、お前のルームメイトは帰ってこれない。となると、俺がついてくしかないだろ?」
 頷かざるを得なかった。彼だって私のためにやってくれると言ってるんだし……。
「それじゃあ、お願い」
 とりあえず決まった方針に、ハルクはにこりと笑んだ。
 あさってからは普通の授業だ。それにちゃんとした体調で出るためには、魔力の問題をなんとかする必要がある。
「アインの魔法陣、解いてやる」
 そう言って彼は手を差し伸べて来たので、私はとりあえずその手に触れた。
 すると、先ほどまで抜けていた力が戻ってくるような感覚で、私は身体を起こすことができた。
「今後役に立つ情報。アインが苦手なのは治癒魔術、呪術、召喚術だ。これらの魔法陣は、解術の心得があれば触るだけで消える」
 そう言って得意気に笑った。つまりハルクは解術の心得がある、と。私が今まで見ただけで、剣術、属性魔術、精霊魔術、解術と、多様な魔術を行使している。
「ありがと。……ねえ、ハルクって何の魔術が使えるの?」
 興味本意で問うと、彼は少々不思議そうに首を傾げた。
「剣術と属性魔術以外は使えるってほどでもない。まあ、攻撃系に属す魔術はだいたい一通り勉強したが」
 攻撃系に属するのは、剣術、属性魔術、精霊魔術の三つ。
 全部使えるって言っても別にいいんじゃないの……?
「そう黙られると気まずいんだが。逆に言うと今使えないのは勉強したけど無理だったのがほとんどだ。お前だって色々やろうと思えばできるさ」
 苦笑いしながら冗談めかして言うけど、彼が魔術においてすごい才能を持っているのは確実だ。
 私は自然魔術でのバリエーションを増やそうと頑張るだけでいっぱいいっぱいだって言うのに、そんなこと。
 昨日から、ハルクはしばしば、私が無理だと思うようなことをやってみればいい、と示唆するようなことばかり言っている。
 そういう精神があるから、彼は色々な魔術を使えるのかもしれない。
「……そう。この後、どうしよう?」
 ユーリアはいないし夜までやることがない。元々、庭園も少しは楽しいかと思って行ったのに、全くつまらないものだったし。
「とりあえず昼か? その後は……」
 私は身体を動かすようなことも、魔術に関わることもできない状況で。
 しかし、はっと思い付いた。
「ハルクは今日この後、なにする予定だったの?」
 練習とか、何かやるなら、それを見ているだけでも退屈しないだろう。
「……寝るつもりだった」
 そう期待する私の気持ちを汲み取ったのか、彼は困ったように頭をかきながら答えた。
 そっか。朝も爆睡だった、とかアインも言っていたものね。昨日ので疲れてもいるはずだ。
「アインはどうだろ」
「お前に絡んだくらいだから遊びの用事はないんだろ。アイツに面白いことしてもらえるかもな」
 彼の珍しい魔術も気になるし、とりあえず、聞いてみよう。
「さて。じゃ、食堂行くか。アインも拾って、な」
 そう言って立ち上がった彼に、私もついて行こうと立ち上がろうとすると、彼は私の手をとった。
 その行為に甘えて彼の支えを借りて立ち上がる。
 やっぱり足の傷は痛いけど、立てないほどではなくなった。一歩一歩踏み出す度に、痛みが走るのみ。
「大丈夫か?」
 彼の顔も見ないまま頷くと、ハルクはそっと手を引いてくれた。
 何でこんな、親切なんだろ。第一印象は嫌なやつだったのにな。
 でも、一昨日は確かに嫌なやつだったし、たまに変なこと言って、やっぱ嫌なやつだし……。
 ちらりとハルクの横顔を盗み見る。綺麗な長い睫毛が、やっぱり目に入ってくる。
 本当は悪い人じゃない、嫌なやつみたいな……?
 一応出た、しかしあまりにもおかしいその答えに、我ながらにやけてしまう。
 悪い人じゃないなんて譲歩するのも、嫌なやつだと決めてしまうのもまだ早い。彼に出会ってからまだ二日しか経っていないのだから。
「お。何話してたの? 超気になる。っていうかやっぱり俺の魔法陣消されちゃったか」
 部屋から出ると、扉の側の壁に寄りかかっていたアインが私とハルクを交互に見てそう言った。
「イールの魔力が戻るかもしれない方法の打ち合わせだ。そうだ、アイン、お前……」
「この後暇だったら、魔術見せてよ!」
 なんとなく、ハルクから頼んでもらうより私が言った方がいいような気がしたし、妥当だと思って口を挟む。
「ふーん……? 暇、だけど見て面白いようなもんじゃなくない? イールちゃんのためならいくらでも見せるけどさ」
 腕を組んで軽く首を傾げた。こういう何気ない仕草がかっこよく見えるって、得だなぁ。
「そうじゃなかったら私、やることないからさ」
 我ながら苦笑いを隠せず返す。不便だし暇は本当に退屈だと思う。ましてや自然の声が聞こえない今は。
「そう言うなら、いいよ。ハルクは寝るのか?」
「あぁ。イールをよろしく頼む」
 何か私、二人に保護されてる子供みたいな扱いになってるような……とは、思ったけど口には出さなかった。
「てゆーか、何見せつけちゃってンですか。怪我人とはいえ、そんなナチュラルにさ〜」
 ニヤニヤしながらハルクにからかいをかけたアインを見て、私はぎょっとして手元を見下ろした。
 咄嗟に手を離そうとしたのに、それは彼が手を握ってくることで阻まれた。
「ちょ、ちょっと……!」
 心配りは嬉しいけど、支えてもらわなくても歩くくらいはできるから、私としては早いところ離してほしいところだった。
 頭一つ近く高くにある彼の顔を仰ぎ見ると、ハルクはいたずらっぽく笑って、次には手を離してくれた。
「ハルク、からかいでもそういうことやるなら、アイツのことなんとかしてからにしろよ。迷惑するのはイールちゃんなんだし」
「……あぁ、わかってるよ」
 アインはにへらと笑みを浮かべながらも、ハルクを咎める言葉は様々な感情を含んでいるようにも聞こえた。
「ん? あー、コイツさ、案外たまに優しいじゃん? それをちゃんと知った上で追いかけ回してる女の子が一人いてね……。俺でもドン引きするレベルにヤバいから気を付けてね」
 な、なんて恐ろしいこと……!
 どういう人かわからないけど、とりあえず想像したのは典型的なプライド高めな美人で、私が願わくば一番関わりたくないような子だった。
「安心しろ。ヤツも今足止め食らってるから学校にはいない」
 そういえば、列車が止まってるんだっけ……。王国の主要都市をつなぐ列車は、魔術の力で動いていて、それほど安定はしてないから、一年に一度くらいは事故が起きたりはしている。
「そうなの……。でも、私、面倒事は嫌だからね」
 そういうことを気にしないで生きていくと、何かと大変な損害を被ることも多いのは、経験上わかってる。少しでも平穏な人生を歩むために……。
「お前が思ってるようなヤツじゃないから安心しろ。嫌がらせとかはしてこないから。立ち話もなんだ、そろそろ行こうぜ」
 少し嫌そうな顔をして彼女の話を打ち切ると、ハルクは再度私の手をとって歩きだしてしまった。
 嫌がらせしないのに追いかけ回してて、アインがドン引きするような女の子ってどんな子なの……?


 ガヤガヤといつもより騒がしい食堂に来て、目がハートになっている女の子たちの視線を浴びてから、私は何の疑問も持たず二人と共にここまで来てしまったことを後悔した。
 無理やり振りほどいてきたから普通に並んで歩いてきたわけだが、二人共、ものすごく注目を浴びていた。それこそ、私なんか誰も目もくれていないくらいに。
「あ、あの私一人で――」
「やましいことなんて何もないんだからいいだろ。現に俺とお前はもう仲が良いくらいの関係じゃないか?」
 少し引っ掛かるところがあってハルクを仰ぎ見ると、彼は笑いを堪えているような顔をしていた。
「わかったわよ! でも君とは別にただ単に色々あって知り合っただけだからね」
 生意気なヤツ、とか、調子に乗っちゃって、とか、結構自分でも色々思うところはある。だってさ、ハルクは外見も良くて実技は一位で、典型的天才だもん。勿論、彼の言うように、私たちの友好関係がゼロと言えばそれは嘘だとは思うし。
 だから何かとハルクは絡んでくるけど、それに素直にすがりたくないながらに、無視もできない。
「わかってるよ。それだけって意味で言ったんだけど?」
 ……アインの時たま見せるわざとやってる腹黒とはちょっと違うけど、ハルクの冗談とからかいは結構イラっと来るし、嘘かホントかわからなくて心臓にも悪い。
 少しムキになった自分も悔しくて、私はふいとそっぽを向くけど、結局そろそろと戻してしまう。
「席とっとけ。注文してくるから」
「う、うん……」
 一人取り残されると、少しばかり虚勢も張っていられなくなる。
 周りの人にとって、私はただの知らない人だろうから、何か聞くなら今のうちで――。
 と、思い警戒し始めて早数分。私の方を見てこそこそ言い合っている人はいれど、誰も敵対心のようなものは向けてきていない。
 私なんか身体も小さくて順位に入らないくらいの成績で、大して怖そうな顔もしていないから、私が周りの人だったら絶対つっかかりにいくのに。
「あの……イール、さんですよね」
 首を傾げてひたすら怪訝そうな表情を浮かべた私に最初に声をかけたのは、自分の背丈より大きな杖を脇に抱えた、気の弱そうな女の子だった。
「え……と、そうですけど」
 想定外の展開に少し混乱しつつ彼女を見据えると、彼女は少しだけ小さな口を微笑ませて続けた。
「私、ハイラ・サンカルといいます。ユーリアさんに仲良くしてもらってて、あの、先ほど魔術通信でイールさんをよろしくお願いと頼まれまして……」
 彼女、ハイラは小さな白い手で杖をぎゅっと握り締めてはにかんだ。ユーリアは私と違って交友関係が広いから、私の知らない彼女の友達なんてごまんといる。
「そうなの。よろしくね、ハイラ」
 親しみやすい、控えめな雰囲気を纏うハイラは、これまた控えめに笑った。
 四人席をとっていた私は、彼女を私の隣の席に促して、椅子を動かして向き合った。
「あの、イールさん……。ハルク、君と、アイン君といましたけど……私、用なしでしたか?」
「そんなこと、全然ない。二人にはお節介かけてもらってるだけで、申し訳ないし……。それに、寮に戻るときとかはやっぱり一人になっちゃうから、心強いわ」
 謙虚な彼女は下から私を覗き込むようにおずおずと問うたけど、私は笑顔で返した。
 男子寮に女子が入れても、女子寮には男子は入れない。それに、階段を一人で上り下りするのは結構な負担だったから、ハイラがいてくれたら、本当に助かると思う。
「お節介……か、でも夜までは俺たちといるでしょ?」
 隣に座ったハイラの方を向いていた私の横から、お盆と共にアインの声が振ってきた。
 彼の言葉を聞いた途端にハイラはびくっと肩を震わせ、捨てられた子猫のような顔で私を見た。
「あ、あの、たまたまもう頼んでただけだから……気にしないで、ハイラのことは頼りたいわ」
 取り繕おうと慌ててそう言うと、彼女はまた控えめに首を横に振った。
「いえ……。その、本当にイールさんが、アイン君に簡単に要求を飲んでもらえるんだなって……」
 目を逸らしながら彼女が言ったのが何のことだかわからなくて、私は首を傾げた。
 アインを軽く見やると、彼は苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「俺があんまり普段面倒なことやんないからかな? っていうか、俺、あんまイールちゃんに要求されてはないよね。俺がやりたい〜って思ってやってるだけ」
 ……そうだ、彼は頼んでもいないのに魔力を供給してくれたり、私を部屋で寝かせたり、色々やってくれていた。
 確かに面倒なことは嫌いそうだとは思うけど、要求を飲まないって?
「そ、そうなんですかっ。あの、フツウの、アイン君と関わりがない人の間では、女の子の要求は決して飲まないって、話で……」
 爽やかで人の良さそうな笑顔を浮かべながら、彼は普段はそうなのだろうか。
「へー。それは遊びとかの話だったりもするかもね。それでも、俺はイールちゃんならそれなりに力になってあげたいなーとか思うけど」
 なんだかアインは当たり障りのないようでいて、ハイラがどんどん恐縮していくような言葉ばかり発しているような気がする……。態度はともあれ、先ほどまではもう少し身を引いた物言いだったというのに。
「夜まで一応、俺らが一緒にいてあげられるからさ、君はその後イールちゃんのこと見てあげて? 君も大変だろうし、大丈夫だよ」
 そう思った矢先、アインはハイラにそんな風に声をかけて、向かいの席に腰かけた。やっぱり何かと人の扱いは上手いんだなぁ。
 は、はいっ、と詰まりながらも彼女は頷く。穏やかな笑みを浮かべたアインの雰囲気に、少しだけ気持ちも解れたようで。
 そんなことをしている間に、いつの間にか無言で空いた席に座ったハルクは、眉間に皺を寄せてハイラを見ていた。
 彼女の方は彼の物騒な険相に少しビクビクしながら自己紹介をしていた。
 ハイラは既に昼食は済ませたと言うので、私はハルクが運んできてくれた食事に手をつけた。
「ハイラは何の魔術を使うの?」
「あっはい、えっと、召喚魔術を主に……」
 ハイラと会話をしている中で、アインはたまに口を挟んでくるものの、終始ニコニコしてるだけで、ハルクに至っては何を思ってか、私が話しかけない限り一言も発さなかった。
 ユーリアが彼女のような子に私のことを頼んだのは、きっとユーリアなりの気遣いだろうと思った。ハルクやアインと仲良くしているように見えていたとはいえ、相手は男なのだから、やはり女の子相手の方が幾分か楽ではあった。
 ハイラは、それなりに有名人であるハルクとアインのことは知っていて、様々な噂も耳にしていたようだったが、それによる偏見にとらわれることはないようで、私も少し安心した。
 列車がいつ復旧するかも、私の足がいつ治るかもわからないから、ハイラにはしばらくお世話になるかもしれない。
 ハルクやアインには、私を構う義理は少しもないのだった。――ハルクは、少しだけ関係してるけれど。
「それじゃ」
 やはりそれだけ言って去ったハルクは、多分昼寝に行ったのだろう。
 アインとの約束があったので、ハイラとも別れ、私は彼と二人で訓練所まで向かった。
「ハルク……何であんな態度だったのかしら?」
「あぁ、アイツああ見えて人見知りだから……。多分それだけじゃないけど、それもあると俺は思うな」
 案外女々しいところもあるのね。やっぱりハルクもよくわからない性格で、まだ掴みきれてない。
 訓練所は、かなりの広さを持った広場がいくつかと、軽い魔術訓練専用の小さめの部屋で構成された棟である。
 私は広場は使ったことはないけど、ユーリアの訓練の見学で何度か入ったことはある。主に剣術や召喚術などのスペースを要する魔術、または模擬戦などに使われている。
 空いている部屋を探して、アインと共に中に入る。
「さて、と……。練習っつっても特に考えてないから、紹介くらいでいいかな?」
 壁沿いに設置されたベンチに手伝ってもらいながら腰かけて、頷く。
 アインはまずポケットから魔術ペンを取り出して見せてくれた。
「ガチで陣術やるなら必需品ね。今朝やったみたいに、魔術師の肌には直接描くこともできるんだけど、コイツがあれば空中でもなんでもいける」
 私の記憶では、物凄い値段のする代物だったような気もするけど、確かに魔法陣術師にとっては便利以上の効果のある道具だろう。
 彼は、ペンを空中に走らせ、円をひとつ描いた。
「実は略式なしでも、これだけで立派に一つの魔法陣として機能する。陣術はどんな魔術でも魔法陣を媒介とすることによって使える魔術だけど、丸一つは、ただの陣術で――」
 彼が言葉を切ると同時に、円が光を放って消えた。そして、アインはにこりと笑ってみせる。
「陣術の発動を司る。つまり、完成した形でもある程度安定してれば魔法陣は発動を抑制できるんだけど、それより簡単な方法が、外側の丸を描かずに発動を抑制するってこと。勿論上級のものになれば別の発動の陣もあるんだけどね」
 次いで、円を横一列にいくつか空中に描いていく。
「この辺は基本だね。魔術の種類を表すんだ。これが剣術、で、これが属性魔術、精霊魔術……みたいな感じ」
 それぞれ私にしてみたら全くただの図形なのだが、それぞれ意味があるという。確かに魔法陣術は詠唱の代わりに魔法陣を描くというだけでなく、陣術師は特性上天性の才能の必要な魔術でさえも難なく行使できるという大きな特徴がある。それだけ特殊な性質、また有利な利点を持っているがゆえに、なかなか使えるようになるには努力が必要だとも聞く。
「陣術は大抵の魔術を再現できると思ってるかもしれないんだけど、なかなか難しいんだよね。感覚の部分でできるのは元の魔術よりももっと少ないし、物理的に無理なのもたくさんある。あと、敵の懐に入りながら魔法陣描くのとか、普通できないっしょ。機転を利かせるのがデフォルトの魔術だから、あんまバカな人にはできないかもな」
 アインの言葉に一つ一つ頷きながら、考えていく。
 やっぱりここまで見ていてアインはそれなりにはすごい魔術師みたいだし、実技で上がってこられないのは、テストとの相性なのだろう。
 ハルクはオーソドックスで一番攻撃に長けた二つの魔術を使う。ある意味、模擬戦においては最強とも言える組み合わせなのだ。
「あ、普段の俺のこと知らないみたいだから言っとくけど、あんま授業とか出てないから評価悪いのよ。依頼とかは面白いからやるけど」
 ……そうだった。彼は正真正銘の不真面目系男子だということを忘れていた。
「……ハルクは真面目なの?」
 ふと気になって聞いてみる。彼は一応成績優秀者ということにはなるけど、初対面の態度はあれだし……。
「ん? アイツ、クッソ真面目だぞ? 知識試験はあんまとれてないけど、暇さえあれば依頼か訓練で、それ以外は寝るとか食うとかしかしてねぇ」
 何やら空に落書きなのか魔法陣なのかわからないものを描きながら、アインはつまらなさそうにそう答えた。
 と、いうことは元々天才中の天才だったというわけでもないんだ。勿論、努力が物を言う世界ではあれど。
「そうなんだ。何か、つくづくこの学校にいる人って、変ね」
 主要都市ではあるものの、魔術が特別発達しているわけではない都市の郊外に建つこの魔術学校。各地から様々な若者が集まってきて、様々な教官と共に授業や依頼をこなす毎日。
 実は、みんな歳はほとんど近いものの、学年制度というものがないため、年齢の離れた生徒もいる。実際、ユーリアは私よりも年上だし、ハルクやアインの年齢なんて知らない。気にしない。それがこの学校の、そしてあえて言うならば寮生の間の暗黙の了解だった。
「ま、業界の間でも有名らしいね。変なのがいっぱいいるって。勿論、人間性的な意味でね」
 アインも苦笑いを浮かべながら言ったけど、決して私はそれが嫌いではなかった。
 理解のない普遍的な人間より、理解のある変人の方がよっぽど付き合いやすいもの。
「よーしできた。見てな、アイン君特製創作魔法陣」
 彼が描いていた落書きのようだった模様の数々は、いつの間にか大きな円形にまとまっていた。
 淡く光る線で形取られたそれらは、芸術的に曲線を重ねている。
 端の一ヶ所が、強く、しかし優しく光ったと思うと、そこから七色の光の束が溢れだした。
 次には、別のところから。
 すぐに綺麗な光でいっぱいになった部屋を、私は呆然と眺めた。
 なんだろう、この感覚は――。


 イールにとって、母譲りの黒髪は、自慢だった。
 まだ、魔術師になるなんて思っていなかった頃、彼女はいつも母の弟である少年――そう、当時はまだ少年だった、叔父と二人で遊んでいた。
 記憶の中の自然の溢れる故郷の村は、懐かしくもあるけれど、叔父の存在は今も近いせいか、郷愁の念はない。
 そう、それはある日の夜のことだった。
 いつものように、叔父がいるからと日が落ちるまで森の奥で木の実を採ったり、古い木の根の間をくぐって遊んでいた。
 その日の帰り道は、彼女には、どうしてかとても明るく見えたのだった。
 叔父が驚いた顔で瞳に映した自分の姿は、不思議なもので。
 自慢の黒髪が、月明かりに反射するように、銀色に輝いていた。
 それからしばらく、日没までに連れ帰され、夜に外に出してもらえなくなった。
 当時はただ不思議だった、自分の髪。時たま一人で月明かりを浴びに外に出ては、神秘的に輝く髪を見つめていた。


「……イールちゃん?」
 声をかけられて、私ははっとして我に帰った。
 アインの魔法陣も光も既に消えており、部屋には昼下がりの気だるい光が差し込んでいた。
 あの綺麗な光を見て、あんなに昔のことを思い出してしまった。嫌な記憶でもなければ、特別に大切なわけでもない、幼少期の思い出。
「すごく綺麗で……ちょっと、考え事してた」
 今だって、自分の髪が輝くこと自体が嫌というわけではない。昔は、好きになりそうになったこともあった。でも、私にとってはこの黒髪の方が大切。
「大丈夫? やっぱり休んでた方がよかったりしない?」
 顔を覗き込んでくるアインからその分だけ少し離れて、首を振る。
「大丈夫よ。それよりも、さっきのの説明を聞きたいわ」
 それから、アインには様々な魔法陣の魔術を見せてもらい、教えてもらい、それから略式も少し説明してもらった。
 彼は本人は不真面目にやっていると言っていたけど、魔術の説明も適切で、そのまま教官でもおかしくないくらいだった。
 魔術ペン以外に、普通のインクで、また魔術師の肌に印として描くなど、様々な方法も見せてくれた。
「そろそろ時間か。寮の下で待ち合わせだったよな。送ってくよ」
「ありがとう。色々見られて、楽しかったわ」
 スピードを増して西に傾く太陽のオレンジの光が、部屋に直接入り込み始めた頃、アインは長い魔法陣術の説明を終えた。
 彼に支えられて歩きながら、訓練をやめて寮へ戻ったり、依頼から帰ってきたのか、昼間よりも増えた生徒たちの姿を眺める。
 多分二日間の普通の休日、それも依頼実習の後に、街の外まで依頼に出た人はそう多くないのだろう。そうなるとやはり足止めを食らっている生徒も多くなく、学校の方は依頼先での滞在を支援する以外には特に何もしてくれないだろう。
 こりゃ、帰ってきたユーリアから愚痴を聞くハメになりそうだな、なんて考えながら、寮の一階、入り口であり広場となっているところまでやってきた。
 多くの寮生で賑わう広場の隅の方の席に、ハルクは既に座っていた。
「ん、アイン、お疲れ」
 彼の開ききっていない瞼に、ぼさぼさの髪が、先ほどまで寝てました、という雰囲気を全開にしていた。
「俺は部屋に行ってるから。後で報告してくれよ?」
 昼食の時既に、事情から内密にしたいという話は彼にしてあったから、アインは軽く手を振って去っていった。
「さて。ちょっと寝坊したから準備をやらなきゃならないんだ、もうじきに日が落ちるが、外で待っていてもらってもいいか?」
「うん、わかった。入り口の側にいるわ」
 言うなり立ち上がって、背を向けて、ぼさぼさの髪を少々撫で付けながらハルクは校舎へ繋がる廊下へ向かっていった。
 準備も何も……あるのかしら?

「待たせたな」
 ぼうっと、声のあまり聞こえない自然の中に身を委ねているような感覚で座りこんでいたところに、ハルクと、彼はやってきた。
「ク、クレイ……バーン、先生」
「何あからさまに嫌そうな顔してんの。そもそも俺を頼るなとは言ったけど俺以外のどうしようもない男を頼ってるんじゃ同じだよ、ったく」
 焦げ茶のオールバックに、短く整えた顎髭。まだ二十七歳だが、彼は正直に言うと老けて見えるように意図してる。
 しかし私は内心すごく焦った。彼とは仲がいいというレベルの関係ではないものの、一番怒られたら何も言えないから。
「そう、だけど……。でも」
 反論を口にしようとしたら、長身の彼の顔がぐっと近づいてきた。
「ま、コイツはちょっと訳ありだから安心しろよ。お前とは理解し合えると俺は思う」
 耳元でそう囁いて、クレイ――自然魔術の教官で、私の叔父であるクレイバーンは皮肉っぽく笑った。
 多分魔術書の話をハルクがして、彼には私のことだとわかってついてきたのだろう。何かと意地悪だけれど世話は焼いてくれるのは昔からだった。
「そんなわけで、一応、同行する。寮の近くと言えど、危険がないとも言えんしな」
「お願いします。寮の窓から見えなくて人目にもつかない場所があるんだ、案内しよう」
 クレイは有無を言わさず私の肩を抱いてハルクの後をついて歩いた。
「こんな状態だったんなら一言言えよ。迷惑とか煩雑だから頼るなと言ったわけじゃなくて、そういう約束だからだろ。意地を張る必要はねぇよ」
 そう、でもここに来てから、彼はいつだって軽い頼みは聞いてくれない。頼れるし仲のいい教官なんて彼くらいなものだけど、普段のクレイは私に対しては、他の生徒に対してよりも冷たいくらいだ。
 クレイの優しく穏やかな声色を聞くのは久々で、私は少しばかり申し訳なくなった。一番心配かけてしまうのも、ユーリアとかじゃなくて、彼だから。
 すっかり日は落ちたし、深くかぶったフードの向こうで彼の表情は窺えないけれど、多分心配してくれている。
 三人分の草を踏む音と、前を行くハルクが照らす炎の明かり、そして月の光だけを追って歩く。
 寮からしばらく離れたところまで来たとき、ハルクは立ち止まった。
「この辺りはこの大きな木の蔭になってるんだ。じゃあ、イール――」
 私は小さく頷く。
 すぐ取ると思って、髪は結わないで来た。フードを取ればすぐに月明かりを浴びた髪が広がる。
 二人が見守る中、フードを取った。
 淡い光が視界をかすめる。自分の髪は、風が吹きでもしない限りなかなか視界には入らないが、フードについてきた束が顔にかかり、私の視界に飛び込んできた。
 途端、私は少しの違和感を覚えた。
 身に染みるような、温かさ。身体からこみ上げてくるわけでもないけれど、確かにぽうっと温かい。
「魔力が、満ちてる」
 ハルクがぽつりと呟くように言った。私の銀に輝く髪に瞳を反射させて。
 クレイは何も言わなかった。もしかしたら本当は知っていたのかもしれない。
「座れ。しばらくこうしていた方がいいだろ」
 ただそれだけ言うと私を地面に座らせて、横に自分もまた腰を下ろした。
 私は今、月から魔力を受け取っている。自由にできない、けれど無限とも言える魔力。一体それを持つ魔術師がどんな立ち位置にいるのか、私は、知らない。

 木々が穏やかに私に語りかけていた。そして、私の隣のもっと偉大な自然魔術師にも。
 クレイは黙ってるし何も顔に出さないけど、自然の中で暮らしてきたのは、自然を愛しているのは、彼も私も変わらない。
「……ねぇクレイ、もしかして知ってた?」
 膝を伸ばして座っているのに、足がどうしてか痛んだ。他が元気になったせいかもしれない。
 私の呟くような問いを鼻で笑って、彼はさあな、と答えた。
 私のことは誰よりも知ってるんだもの、知らないなんて、知識があればなおさらおかしかった。
 向かい側にハルクもなんとも言えない表情を浮かべて座っていたけど、彼は私のことを見ていなかったから、余計視線を送り続けるのは憚られた。
「ま、知ってようとなかろうと、俺もお前の父さんも、お前が魔術師になるなんて反対だった」
 小さな私の小さな反抗は、今こうしてこんなところまで繋がっていて、後悔はしていないながらに、様々な物の重みも感じていた。
 今さら村に帰っても、以前みたいにクレイや家族みんなと暮らすことは無理なのだから。
「……一つだけ、聞いてもいいか?」
 クレイの重みのある言葉に顔をしかめる私に、ハルクがまたぽつりと溢すように問いかけた。
「何?」
 少しの距離が開いているし、明かりはあると言えども暗がりの向こうで小さな頷きが届くともわからないから、声に出して問い返す。
「そんなに髪は綺麗なのに、イールはどうして嫌なんだ?」
 彼の中にあるのは純粋な疑問なのだろう。好奇心やそういった分類に上らないほど純粋な。
「いっぱい理由はあるけど、言いたくない。――でもね、髪自体が嫌いってわけじゃなくて……」
 きっぱり切り捨てることには慣れていた。初めて聞かれたことじゃないから。
 しかし、私は自分で口にして気がついた。彼が昨晩褒め返してくれたのを、私は切り落としてしまった。
「昨日、褒めてくれてありがとう。あんまりいい思い出ないから反射的に怒っちゃって、ごめんなさい」
 ハルクがあの場で嫌味を言うとは思えなかったし、私の言葉への返しでお世辞だったとしても、他の人のように嘲笑を交えたような言い方じゃなくて、あんまり嫌な感じはしなかった。
 遠くの影を落とした彼の表情はわからない。
「そう、か」
 なんとも言えない沈黙が流れる。ハルクの手の中の、音は立てず燃える炎だけが揺らめいている。
「治癒魔術、かけてもらっただろうが一応かけとく」
 クレイが身体を起こして、私の伸ばした足の近くまで動いた。
 彼の自然魔術は、当然のことながら、洗練されている。
 略式の中でも正式な形式である無詠唱型の発動をして、月の光を集めた。
 もしかしたら、普通のものよりこっちの方が効きやすいとかいうこともあるかもしれない。特殊な魔力を持っているという以前に、私は自然魔術師だから。
 普段魔術を使うときにも感じることだけれど、月の魔力は、とても神秘的で美しい感じがする。
 クレイを通した優しくて美しい魔力は、感じているだけでも心地がいい。
「まだなかなか完全には治らないな。ま、魔力が戻ったことだし、なるべく負荷がかからないようにしろよ。……さて、俺もう行かねぇと」
 治癒を終えて、クレイは立ち上がった。私は首を傾けて彼を見上げ、頷いて感謝を述べた。
「俺たちも行くか」
 側まで歩いてきたハルクが、私の手をとって促す。フードを戻してから彼に引っ張ってもらって立ち上がると、久々に近くに来たハルクの顔は、微笑んでいた。
 クレイの治癒の効果はあったようで、足は驚くほど楽だった。
 片手に炎を掲げたままハルクは私の手を引き、寮の一階にある食堂へと向かう。
 先の方をすたすたと歩いていくクレイの背中を見ながら、私は昔のことを少し思い出した。彼は、どんなにケンカした後でも、私を置いていくことはなかったのに。
 何を言おうと、私は一人で魔術学校に入ってしまった。もう元の生活には戻れないんだ――。

「で、どうだったわけ?」
 後で報告すると約束したアイン、そしてハイラもまじえて、四人で机についた。
 ハルクが一通り、あのことには触れないように説明してくれて、なんとか、心配かけていた件の一つは解決ということになったのだった。
 魔力の使えなかった私に代わってユーリアの魔術通信を受け取っていたハイラだけど、その時から調子が悪かったらしく、今晩は繋がらなかったらしい。
 ユーリアにも心配をかけてしまっているだろうから、いち早く伝えてあげたかったけれど、仕方のないことだった。
 今日何かとお世話になった三人にお礼を言って、私は自室へと戻った。
 後ほど部屋を訪れたハイラの言葉に甘えてお風呂も付き合ってもらい、私は何事もなく一日を終えた。
 一人で眠る部屋は、何故だかとても寂しく感じた。


 大きな物音で目を覚ました。外を見れば、まだ夜も更けた頃の空。
 懐の武器を握り締めて、ベッドから下りる。
 ――やっぱり、何かおかしいと思ってたのよね。
 ユーリアは扉の外に不審な物音がないことを確認すると、鍵を開けてゆっくり扉を押した。
 途端、急いでいるような大きな足音が廊下に響くのが聞こえる。
 彼女はさっと扉の外に出て、その間に形を変えた大槌を構える。
 目の前を通りすぎたのは、何だったか。それは十分に警戒していた彼女にもわからなかったが、後に残った引きずられたような血痕と叫び声が、その正体を粗方物語っていた。
 通りすぎた何かが向かった方を睨み付けて、ユーリアは思考する。
 大きな物音は、魔術の爆発か武器での攻撃、それも扉などを壊すようなものだった。目を覚ました瞬間には魔力は感じなかった、ということは武器という可能性が大きい。
 相手が武器を使うなら、勝てる。
 とにもかくにも、逃げるにも階下に向かわねばならない。彼女は血痕の向かう先を目指した。


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