Argento - ep.01「ぶっきらぼうな魔術剣士」
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 カコン、と桶の転ぶ音がした。それだけ聞けば、何の疑う余地もないような平和な音。
 しかし、その状況では、その音はひどく疑い深い音だった。
 ようやく湯船に浸かることのできた少女は、肩をびくりと震わせて、入り口を見やった。平和的な思考の彼女は、誰か別の人が入ってきたのか、という疑念しか抱かなかった。……それも、こんな夜中に。
 しかし、彼女が思わずタオルをかぶって、そして目にしたのは、もっとひどい現実だった。
 何が起こったのかわからない、と思う間もなく、彼女は本能のままに――叫んだ。


「いやあぁぁぁー!?」
 他の人がこの時間に入ってくることも、たまにあることだから、腹をくくろう、だなんて問題じゃなかった。
 振り返った先に立っていたのは、確かに男で、脱衣所に背を向けていて逆光だったからシルエットしか見えないものの、私が叫んでもたじろぎもしなかった。
 ……突っ込みどころはたくさんあるけど、とりあえず見られたくない。
 そう思った私は、他にいい方法も思いつかなかったので、湯を思いっきりそいつに向かってぶっかけてやり――勿論魔術で多少の調整もし、タオルをかぶったまま脱衣所に走った。
 月の光が届かない普通の魔術灯の下で、私は胸を撫で下ろした。
 とりあえず何も言われなかったし、何もされなかったからよかった。
 しかし、私は知らなかった。あの男はかけた湯をいとも簡単に避けたため何の目眩ましにもなっておらず、そして先程の叫び声のせいで、その辺を歩いていた教員がこちらに向かっていたことを。

「……ええとそれで、ハルク君はルームメイトのいたずらで転移してしまったと」
「はい」
 あの後、大急ぎで駆けつけた先生――精霊術科のヒイツ先生だったかな、は、男の姿を見るなり私以上にビックリしてパニックになってしまい、なれの果てには私と彼の二人でなだめる形になってしまった。
 そして、今、先生の自室に連れてこられ、男の口から事情が説明されたところ。
 彼は部屋に帰ってきた途端、ルームメイトの描いた魔法陣を踏み、そして女子風呂に転移してきたのだという。
「イールさんは何かされたりしてないのよね?」
「……はい」
 色々な意味で、いい迷惑だったけど。せっかくのお風呂が台無しだった。
 今までまともに顔も合わせていなかった彼の方をちらっと見ると、彼は面倒そうな表情を浮かべていた。
「そう……。それなら、叱るのはハルク君のルームメイトよね。この後……えーと、もうこんな時間だし、とりあえずイールさんを寮まで送ってあげて? それで明日の朝、私のところにルームメイトを連れてきてちょうだい」
 小さく頷いた彼もまた、私をちらっと見て、そして目が合った。
 桃色っぽい焦げ茶の髪に、紫の瞳……うん、見かけたことはないかな。でも、女の子みたいに睫毛が長くて、結構綺麗な顔してる。
 相手は何を思っているのかわからないが、眠そうな目を一瞬こちらに向けただけで、向きなおして溜め息をついた。
 ――自分が一切関係ないわけでもないのに、嫌なやつ。
 すっかり精神的に参ってしまっている先生に別れを告げ、彼女の部屋を出たところで、彼は口を開いた。
「別に一人で帰れるよな?」
 ……コイツは、謝りもしないのかっ。
 気取ったような態度も相まってカチンときた私は、意地悪にとこう言ってやった。
「君のせいでゆっくりお風呂に入れなかったの。寮までの話相手くらいにはなってよ」
 これは紛れもない事実だろう。元をたどれば彼のルームメイトのせいだとしても。
 しかし彼も食い下がった。
「俺はお前と何も話すことはない。双方にとって時間の無駄だ」
 わークールで合理的なキャラですか。ちょっとくらい綺麗な顔してるからって、女の子がみぃーんなそれで騙されるとでも思ってるのかしら。
「大体! 私の貴重な入浴時間を邪魔したお詫びもないの?」
 せっかく疲れてるのに毎晩毎晩我慢してるんだから。
「……あの髪を見られたくないからこんな時間に入っていたのか?」
「え……」
 唐突な彼の問いに、拍子を抜かれる。
 髪……見てたってことは――。
「う、嘘っ! 見えてたのっ」
 別に減るもんじゃないとか自分で思ったりもするけど……っ! どっちかっていうと髪よりその他を見られた可能性の方が嫌だった。
 しかし彼は面倒そうに後頭部をかいて、私を見下ろした。
「髪しか見てないって。……あ、いや、正直に言うとほんの少し見えたが」
 そんなところまで冷静に言わないでほしかった。だって、私がバカみたいで……。
 とりあえず、落ち着け私、と念じながら、髪のことについて口止めすることを考えた。
「……誰かに言わないでね。面倒だから」
 私が一人で風呂に入っている意味がなくなる。
 しかし彼は、それを聞くなり、こう返した。
「じゃあ俺はそれを黙っておくから、一人で帰れるよな?」
 うっ……。
 交換条件の出し方は彼が一枚上手だった……が、仕方ないので私は頷いた。
 まぁ勿論、一人で帰れないなんてことはなかったし。
 私が顔を上げる頃には既に背を向けて歩き出していた彼の名前は……。

「えっ!? ハルク君って……実技の学年順位がいっつも一番の、ハルク・イーネス君じゃない?」
 自室に帰り、少しいつもより遅い帰りを心配していたルームメイトのユーリアが、私の話を聞いて、身を乗り出してそう言った。
 そういえば……確かに聞き覚えのある名前ではあったなぁ。
「ってことはルームメイトって、あのアイン・シューバー君よ? あの人ってそんなことまでするんだあ……」
 一人でいい感じに盛り上がっているユーリアは、普通にしていれば美人だし面倒見もよくてとっても良い子なんだけど、こう、男の子に対して、ムッハーって感じなのが残念。って言ってもまぁ、恋してるとか媚び売るって感じじゃなくて、見て楽しむ、って感じなんだけどね。
「そんなイケメンズに関われて羨ましい……って言いたいとこだけど、ハルク君なんて一体何人の女の子を泣かせたかわかんないくらいの冷徹な性格で有名だし、アイン君は超がつくチャラ男で、いっつも女の子を狙ってる肉食猛獣らしいから、気をつけてね、イール」
 一人で盛り上がって早口でまくし立てた彼女に、私は苦笑いで頷いた。
 そもそも、あんな感じ悪い男にもう関わりたくなんてないですってば。
 まだ一人で悶々としているユーリアを尻目に、私は布団に潜り込んだ。
 明日から依頼実習が始まるし……。そういえば、二人一組なんだっけ。嫌なやつと当たらなきゃいいけど。
 依頼実習は、簡単な依頼をこなし、実技点に加点される、ちょっとしたイベントのようなものだった。依頼内容はペア二人の成績によって決まるとか。
 あんまりキツいのは当たらないだろう。少なくとも、ペアが私より下の人ならば。
 大して才能があるわけでもなく、実技も知識も中の上、といったところだ。
 勿論先ほど出会ったハルク・イーネスなんかには足元にも及ばない。
 ……はぁ、あんなやつのこと考えるのはやめよう。
 静かになったユーリアにおやすみ、と告げ、私は明かりを消した。


 翌朝、食堂がなにやら騒がしいと思ったら、依頼実習のペアが貼り出されているようだった。
 一足先に食堂に下りていたユーリアが、私を見つけるなり、猛ダッシュで駆け寄ってきた。
「イール! あなた、ハルク君とペアよっ!」
「えぇ!?」
 昨日見た、やる気なさげな横顔を思い出してしまう。実技点はいつも一位ということもあるし、頼れるとは思うけど、あんなやつと一緒に実習なんて。……って、そうなると、もしかして。
 自分の目で確かめるついでに、信じがたい事実を確認してしまう。依頼のランクが、Aランクだった。私一人じゃCランクで精一杯なのに。絶対アイツのせいだ。そうに違いなかった。
 貼り出された紙の前で落胆している私をユーリアが席で呼んだので、私は彼女の隣に座りに行った。
「まあまあ、いいじゃない。ハルク君みたいに頼れそうな子とペアで。知らない子で役に立たないような人よりよっぽどましじゃない」
「そうかなぁ」
 そういう子と交流を深めるのもいいと思うけどなー、なんていうのは、ハルク・イーネスと一緒になりたくなかった私のただの言い訳みたいなものだった。
「ハルク、この子?」
 あまり食べる気もしない朝食を前に黙っていると、背後でヤツの名前が出された。
 私はムッとして何も気にしないようにしようとしたけれど、その次に誰かが肩をトントンと叩いたので、振り返った。
「あ、イールちゃんだよね。俺、アイン・シューバー。ハルクのルームメイトのね。昨日はごめんね、ハルクが」
 陽の光を受けて透明に輝くブロンドの髪に、マリンブルーの瞳。びっくりするくらい白い肌で、彼は確かにユーリアが言っていた通りにイケメン、ではあった。
 そう言って爽やかに笑った彼の背後で、ハルク・イーネスが眉間にシワを寄せて何か言いたげにしていたが、私は無視した。
「しかもハルクとペアなんでしょ? 代わってあげたいくらいだけど、そういうわけにもいかないしね……。コイツほとんど何も喋んないし無愛想でつまんないヤツだけど、仲良くしてやってね」
 さすが、ユーリア情報の通り、チャラ男、というかよくもまぁ舌が回る、といったアイン君。でも、彼もハルク・イーネスも同じくらい美形だし、選ぶなら断然アイン君よね。なんて。
 ふわふわのブロンドの髪を軽く揺らして私に別れを告げてアイン君は去って行ったが、そこにはハルク・イーネスが残っていた。
「昨日の話聞いてたよな。全部アイツのせいだから俺は悪くねぇ。……それにお前も俺に湯をかけようとしただろ」
 せっかく謝ってもらって少しばかり機嫌が戻って、許してあげようと思ってたのに、何よ、この言いぐさ。
 それに……。あれ? かけようとした、ってことは湯はかかってなくて、つまりハルク・イーネスは私が全裸で猛ダッシュするのを見ることができたというわけで――。
「うっわあぁ! 変態っ! 何なのよ、そこまでしてそんなにしれっとしてっ」
 不機嫌そうな顔をしていたハルク・イーネスが、一瞬、いきなり声を荒げた私にびっくりしたようだった。けれど、次の瞬間には以前よりもっと険しい表情を浮かべた。
「湯にかかりたくないから避けただけで、別にお前のことは見てない。それに少し見えたのは不可抗力だし、もう忘れたから許せ」
 ……コイツ、乙女心の全くわからない俺様なのねっ? 昨日も思ったけど、ちょっとくらいカッコいいからってそれで許されるはずはないでしょ。
 ますます腹が立ってきた私は、席を立って彼に真っ正面から対峙した。さほど背が高くない私と、結構背の高いハルク・イーネスとの身長差は歴然だったけれど、たったそれだけのことで怯む気はなかった。
「世の中それで許されると思ってるの? 私が少なからずショックを受けて損害を受けたことについて謝りなさいよ、変態」
「公衆の面前でありもしないことのせいで変態呼ばわりされるのは気分が悪ィな。本気でやるか、あ?」
 この人物と本気で魔術で対決したら勝てないことくらいわかっていたけど、引き下がるつもりは毛頭ない。私は彼を睨み付けた。
「イール〜、色んな意味でみんなビビっちゃってるから、続きをやるならお外でね。ハルク君も、こんな子相手にムキにならないの」
 ユーリアのとぼけた感じの声に振り返ると、確かに周りの人まで緊迫した表情を浮かべていて、私は仕方なく、もう一度ハルク・イーネスを一瞥してから席に戻った。彼もまた、ユーリアの言葉に納得して去って行った。
「つくづくあなた、肝が据わってるのか、おバカなのか。ハルク・イーネスにボコられたらイールみたいな女の子なんて命が危ないくらいよ?」
 冗談めかして言ったユーリアだったけど、目はあんまり笑っていなかったから、私は少し反省した。
「それにしても、あのハルク君とあそこまで話してる人を見るのは初めてだったわ。……イール、あなたちょっと気に入られてるんじゃない?」
「……嬉しくない」
 話しかけないでくれる方がマシだってば。大体アイツが謝らなくっても、挑発するようなことを言わなければ私だって許してたのに。
 依頼実習のことを思い出して、私は嘆いた。


 ついに、このときがやってきてしまった。
 今日、午前中は通常講義で、午後に依頼実習に出かけるのだった。
 昼食の後、重たい気分で自室に戻り、荷物の支度をする。
 ハルク・イーネスに、どうせ足手まといと言われるのはわかってるし……。依頼の場所は森の中だったから私の庭ではあるけれど、水と火が使いにくいその場所では、援護はあまりできそうにない。
 ……はぁ。
 大きな溜め息をひとつついて、エントランスまで下りると、既にたくさんの生徒が支度をしてペアを待っていた。
 私も探したくないけどハルク・イーネスの姿を探す。多分向こうが私を見つけるより私が探した方が早いし……。
 数回キョロキョロしたところで、あの桃色がかった茶色の髪の男子を見つけた。
「ハルク・イーネス、行くわよ」
 振り返った彼はやはり不機嫌そうな表情をしていて、見ているこっちが不愉快になる。
 彼の返事を待たないで背を向けて歩きだした私に彼は声をかけた。
「おい。……おいっ、聞いてんのか、イール」
 名前を呼び捨てにされたことについては黙っておこう。そもそも、きちんと自己紹介もお互いしてないんだからそんなこともうどうでもいい。
「何?」
「フルネームとか、アンタ、とかやめろよ」
 彼がわざわざ私を引き止めて言ったことは、そんなどうでもよさそうなことだった。
 私はますます口を尖らせて言った。
「私は今のところアンタと仲良くしたくないの。私と仲良くしたいならもうちょっと常識を持って接してよね。仲良くしたいと思ったら名前で呼ぶわ」
 私の言葉に、ハルク・イーネスは一瞬固まって、溜め息をついた。
 ……何よ、私が子供みたいに。
「……ところでお前の魔術はどんなのだ?」
「自然魔術。アンタは?」
 自然魔術とは、五大元素で構成され、動物ではないものを操る魔術。様々なものを操ることができる可能性を秘めているので、それなりに幅は広い魔術だった。
「……お前、本当に俺のこと知らないんだな」
 頭をかきながら言った彼は意外そうだったけど、私は完全にそれを無視して返した。
「興味ないもの」
 刺々しい態度だと思うかもしれないけれど、この人がものすごい親切をしてくれたり、人が変わったように優しくならない限り、私はこの対応をやめる気はない。
「魔術剣士だ。地と空以外の三元素の属性魔術と、普通の剣術を使う」
 魔術剣士っていったら、ユーリアと同じね。……彼女の場合、特殊タイプだから多分全然違うんだろうけど。
「あとお前、武術はどれくらいできる? ……いざというときにすり抜けられるかどうか、だ」
「見ての通りからっきし。……今日は、足手まといにならないように、なるべく自分の身を守ることを優先するわ」
 ハルク・イーネスのことは嫌いだけど、依頼実習は真面目にやらないと、だから、ちゃんと方針を伝えておく。
「……わかった。俺は治癒魔術が使えないし、確か自然魔術も水、月の上位級にしかないよな? ケガしたときは、お互い様、ということだ」
 ……やっぱり、危険な依頼は慣れているのかしら。こういうとき、明らかに私がすぐやられそうなのはわかってるのに、見捨てないようなことを言った。お情けかけられるのなんて嫌だから、死んでもケガなんてしないわ。
「了解。早く行くわよ、日が落ちる前に終わらないことほど最悪なことはないし」
 ……勿論、長い間ハルク・イーネスと二人っきりなんて嫌っていうのもあったけれど、日が落ちてから外を歩くのは、髪を見られる可能性も高いし、本当に嫌。
 二人きりで依頼の場所まで歩く。今回は学校経由の受注だから、依頼主には会いに行かないで、そのまま現場へ向かう。
 Aランクのその依頼の内容は、凶悪な魔物の討伐。そいつが出没するという森には、他にも危険な魔物が山ほどいるそうなので、Aランクなのだという。
 ……果たして、何事もなく終われるかしら。
 いまだ私は、少し前を黙って歩くハルク・イーネスの実力をこの目で見た訳ではなくて、信じられずにもいた。
 そりゃあ、私みたいな何でもない魔術師よりすごいっていうのは明らかなんだけどっ。
「ここからが、危険な森だ。……あまり意地張ってないで、油断するなよ」
「わかってる。一言余計よ」
 今はそんなに気持ちがいいというわけじゃないけど、それほどイライラもしていないんだから、言われなくてもアンタのことを気にしてやられたりなんてしない。そう言ってやりたかったけれど、そこからまた口論になっても面倒だし、私は口をつぐんだ。
 その森は存外に普通の森で、木々も大して動揺している素振りは見せていなかった。
 辺りを警戒しながら進んでいると、突然横の茂みからオオカミの姿をした魔物が一頭飛び出してくる。
 私よりも前方――ハルク・イーネスの目の前に飛び出たそいつは、咄嗟に剣を抜いた彼に切り捨てられた。それでもまだ息をしている魔物に、彼は風の刃をぶつけると、魔物は動かなくなった。
「気をつけろ。まだ微妙に色々な気配を感じる」
 ……さすがに、圧倒させられた。どんな雑魚の魔物でも、先ほどの彼のように数秒で倒すことは、私にはできない。いきなりの襲撃だったというのに冷静に剣を振り払い、また魔術とのコンビネーションも最高で、テンポが非常に良い。これが、実技一位の実力。
 私も気配は少しだけ感じていたから、彼の言葉に頷き、左右を確認しながら後をついて歩く。
 ……でも、木々は静かなのね。
 自然魔術は、自然そのものを操る――別の言い方をすると、力を借りる魔術だ。それゆえ、自分を取り巻く自然の魔力の状態、それは時に感情のようである、は、無意識的に感じとる。たとえば、木々のように不動なものは、魔力の動きで、動揺をしているようなときがある。死んだ大地からは魔力を感じないし、特別な力を持った泉からは強い魔力を感じる。
 特殊能力というわけではなくて、単に自然の魔力に慣れているから感じ取れるのだが、学生くらいの未熟な魔術師では、自然の魔力を感じ取れるのは自然魔術師くらいなものだった。
 そして、悪い魔力を持つものが近くにあったり、自然が破壊されるような気配を感じていると、木々はざわめくのだが……今はそれを感じない。先ほどのようなちょっとした魔物が生息するくらいではそうではないが、依頼対象の凶悪な魔物ともなると、木々が異変を感じないのもおかしい。
 一通り思考して、一つの可能性を見つける。
 ただ……元から住んでいる魔物が凶悪化したというだけなら、もしかしたら、木々たちにとっては異変ではないのかもしれない。最近はそういう事件もよく聞くし。
「おい、ボーッとしてるのが黙ってても滲み出てるぞ。少しでも賢い魔物はそういうのも読み取って襲ってくる。気を抜くな」
 私を振り返らぬまま、ハルク・イーネスは低い声で忠告をした。
「わかってるわよ」
 私も小さく返す。あまり大きな声を出して魔物を呼び寄せるのも得策とは言えない。
 沈黙と緊張の下、二人の足音と衣擦れの音、そして彼の鞘のカチャカチャという音だけが、果てしなく広がる森の空に消えていく。
 その中に、少しばかりの息の音が混じったのを、私は聞き逃さなかった――が。
「っわ」
 飛びかかってきた魔物を咄嗟に避けたところで、尻餅をついてしまう。しかも、避けた方向は後方。ハルク・イーネスとの間に魔物をはさみ、私は数頭の魔物に囲まれていた。
 唸り声と、肉食獣のひどい唾液の臭いがやけにリアルで、私は一瞬怯んだが、すぐに立ち上がって、同時に辺りに風を起こす。
 ちらと前方向こうを見やると、ハルク・イーネスもまた魔物に囲まれているようだった。
 私がやるしかない……か。
 鋭い風の壁に阻まれて私に近づけない魔物たちだったが、風も長くは続けられない。考えているヒマはあまりなかったが、私にはなかなか良い策が見つけられなかった。
 地、空、風……。決定打を与えるか、威嚇をできるもの――。
 風が収まると同時に魔物が飛びかかってくる。私は、懐から鏡を取り出して空に掲げた。
「集光、陽炎っ」
 太陽の光を受けてキラリと光った鏡に、魔物たちは少し眩むが、次の瞬間にはまた牙を向く。
 しかし、こちらもそれで終わりではない。上手く手頃な木の幹に反射光を当てると、そこから炎が上がる。そして、炎は私の方へ向かって戻ってくる。
 魔物たちは鳴き声を上げて引き下がる。そう……こういった森の中で暮らす魔物は、火を怖がる。私は炎を手元に掲げて、魔物たちを威嚇する。背後にも勿論気配を感じていたけれど、背後の魔物も炎を怖れて、ただ弱々しく唸るだけだった。
 太陽がこうして出ている間は、何もしなければこの炎は消えない。から、安全――。
 と思っていたら、背後から何かが飛んできて私は前に倒れた。勿論、炎は地面に押し付けられて消える。
「くそっ! イール、防御を!」
 ハルク・イーネスの声が聞こえた。私は地面に顔をつけていたから辺りの様子は全く見えなかったけれど、必死に地の盾を形成しようとした。しかし、上手く集中ができない。動機が激しくなって、身体の末端が震える。
 人の地を蹴る足音が聞こえた。そして、たくさんの、硬い足裏の音。
 私は何をすることもできずに、顔を上げることさえできずに、地に伏している。
「イール、早く立て! 少しでも離れろ!」
 どうやら、ハルク・イーネスが一撃、辺りの魔物を蹴散らしたようだった。
 魔物たちの肺から出る甲高い鳴き声がいくつも聞こえた。
 私はざわつく視界と耳鳴りの中で、辛うじて立ち上がって、何も見えないままに走る。
 しかし――。
「後ろ! 後ろを見て……いや避けろっ!」
 ハルク・イーネスの声がしたと思った次の瞬間。
 両足のくるぶしあたりにほぼ同時に激痛が走った。痛みは一度だけ。何もわからず倒れ込んだ後、背後で魔物が息絶えるのがわかった。
 ……そして、辺りは静かになった。ハルク・イーネスの切れた息を必死に取り込む音と、私の何やらよくわからない嗚咽以外は。
 うつむけに倒れた私の背中を支えて、仰向けに返される。
 まぶたを上げる勇気は、私にはなかった。だって、足が……。
 肩をバシバシ叩かれる。正直痛かったけれど、両足の、もはや感覚のない痛みに比べたら何でもなかったし、多分ハルク・イーネスも戦闘の後で力加減ができなかったのだろう。
 しかし意識があることを伝えないと、彼はもっと焦ると思い、私は唇を開けた。
「起きてるわ」
 助けてくれてありがとう、とか、心配しないで、とか、言えることはたくさんあったはずなのに、そんなくだらない返事しかできなかった。しかし、多分思考は元気でも、私の身体は恐怖やら何やらで震えていた。
「いや……俺のせいだ。すまなかった。立て……ないよな」
 視界は、目をつぶっているから黒に塗りつぶされていた。しかし、そんな弱々しい声を発するハルク・イーネスが一体どんな表情を浮かべているのか気になって、まぶたを開けた。
 目の前に映った彼の顔には、ぎょっとするほど真っ赤な血――多分魔物のもの、がかかっていて、綺麗な白い頬は見る影もなかった。そして、悲しそうに、悔しそうに寄せられた眉。不思議なことに彼は、そんな表情の方が、綺麗だと思った。
 そして、ようやく最後の言葉を思い出して、元気な腹を折って身体を起こす。いつものように足を立てて体重をかけようとしたが……。
「っつ、あっ」
 全身の神経に伝播するような鋭い激痛が走る。……これは、立てそうもなかった。
 けれど、私は彼のお荷物なんかにはなりたくないから、どうにかして立とうとした。
 けれど、筋肉に力が入る前に、反射的に関節がガクンと折れる。何度繰り返しても、同じように。
 意地っ張りな私を見かねたのか、ハルク・イーネスは私の両手首をしっかり掴んで地面にくっつけた。
「立とうとするな、悪化する。腱が切れてる可能性も高い。……ここからはおぶっていく」
 ……急に、優しくなったなぁ。
 呑気にそんなことを考えた私は、それでも彼に首を振った。
「いいの、私、魔術で進めるわ」
 地の隆起を連続させれば、移動することもできる。ハルク・イーネスの手が塞がっていちゃあ、頼れる力も数パーセントだろう。
「いや、そんな魔力を消費しそうなことはしなくていい。肝心の魔物を倒すとき、援護を頼みたい」
 私の思っていた彼の不機嫌そうな表情なんて嘘みたいで、その顔には今、真剣そのものといった表情が浮かんでいた。
 援護って言ったって、私……。
「大丈夫だ。心配しなくても、俺だって魔術だけでも戦える。……って、さっきあんな失態して、言う訳もないが」
 勿論、置いていかれたら私の命はないし、この状況においてそれが得策だというのならば、と私は頷いた。
「……君が、いいなら。それと、さっき、何があったの?」
 自嘲気味な笑みや、悲しそうな表情。どうしてこんなにも急に彼は表情が豊かになったのだろう。
「俺が倒した魔物の残骸が、お前に当たってしまった。ただそれだけだ」
 また少しだけ冷たい表情に戻って、ハルク・イーネスは私の手を離して、背を向けて再度しゃがみこんだ。
 ……でも、私も悪かったと思う。少しくらい余裕があったのに気がつけなかったから。
 彼の言葉に甘えて、肩にそっと手をかけて、腕に足を通す。
 う、わ……。男の子におんぶされるのって、結構恥ずかしい……。
 一瞬足を地面についたときに、激痛が戻ってきたが、そのままにしていると、さほど痛みは感じなかった。
 放っておいていいのかな……。まあ、やる方もないんだけど。私は月の上位級の癒しの魔術なら使えるけど、まだ月は出ないから。
 かなりホカホカなハルク・イーネスの背中の体温を感じながら、一人分になった、地を踏みしめる音を聞く。
 そうだ、背負われてても、私も魔術を使える。魔物が出てきたとき一番早く対応できる位置に私はいるんだ。
 先ほどと同じように、太陽の光を集めて炎を出す。これで進んで向かってくる魔物は減るだろう。
 間違ってもハルク・イーネスの髪や服を燃やしてしまわないように鏡を高く掲げる。
「お前の魔術、」
 私のもののすぐ前のその頭を、少しも揺らさずに話しかけてくる。
「出力も手順も的確だ。略式アレンジが全くないから、安定はするが、瞬発性に欠ける。略式の勉強をしたら、良くなる可能性を感じた」
 略式アレンジ。精神集中や魔力の長し方を工夫することによって、正式な手順を踏まずに術を発動させ、より操りやすくしたり、速さを高める高位の技術だった。
 彼の言う通り、片端から丁寧に組み立てることしかできない私は考えたこともないことで……。
「……これから頑張るわ」
 私の今の致命的な負傷をした状態では、彼に楯突くことなんて許されないような気がした。本当は、天才とは違ってそんなことできない、なんて言いたかった。
「例えば……アインは略式の天才的なセンスを持ってる。アイツの魔術、魔法陣術はそのままではトップクラスに発動が遅いが、アイツは属性魔術師並みのスピードを誇る」
 なんでいきなりそんな話をしだしたのかわからなかった。しかも、全然関係ない話。
「実技順位なんてな、テストと魔術の相性もあるし、本当の意味での『実技』とは言えないと俺は思う。……現に俺は」
「引きずらないでよ。自虐してる君を見てもいい気分になんてなるわけない。私の方が申し訳なくなるってわかってる? 『ケガしたらお互い様』って言ったのは君でしょ」
 つまり、彼は懺悔がしたいだけだったのだ。悔しい思いを晴らすように、意味なんてない自虐と謝罪を続けて。
「私は感心はしたけど君を尊敬なんてしてない。助けてくれる確信なんて持ってなかったし、君のせいにはしたくない。それは君と同じ、私の意地」
 彼がどんな顔をしているのかは計り知ることができなかった。
 しかし、少しうじうじしている彼に腹が立って、感情的な言葉を吐き出してしまった私は、気まずさに一度コホンと咳払いをした。
「でも、ありがとう。私、魔術褒められたのは初めて」
 嘘じゃなかった。魔術師の先生なんて、所詮魔術師でしょ。認めたくない子は絶対認めてくれない。素直じゃなくてかわいくない私をかわいがってくれる先生なんて誰一人としていない。……家族も、私のことなんか。
「……ははっ」
 私を背負った彼が、唐突に笑い声を立てる。
 そして、少しずり落ちかけていた私を背負い直した。
「色目使ってくる大人や生徒も増えた。同じ目線で語り合えるやつはどんどん減った。ただ努力が実っても、やりすぎると孤独になる」
 彼自身のことだろうと思った。……私を励ましてくれようとしているのだろうか。
「いいじゃない。自分が自分にとっていいなら、孤独だって。きっと寂しくなんてないんでしょ」
 表情に出さないタイプと言ったって、今まで平気だったんだから。
「まあな。……だからさ、お前みたいなやつと真っ向から話したの、久しぶりだった」
 本当は全然、弱っちい男の子なんじゃないの。実技順位一位のハルク・イーネスも。
「――ハルク、あれ」
 単調に進んでいた道の向こうに、一際木の生い茂っているような暗い土地が見えた。
 そして、尋常じゃない、木々のざわめき。
 先ほどまでは感じていなかったそれに、私はようやく納得する。一部だけ、魔物の魔力に汚染されているようだった。
「木の上に下ろして。私は脇で隠れてチャンスを狙う。木々の力を借りた方が楽だわ」
 言う通りに脇の木の上に私を近づけると、私は鏡をしまい、木に腕だけ使ってしがみついた。
 軽く枝にぶつかった足の激痛で、落ちそうになった私を、ハルクが支えてくれる。
 そのまま彼の力を借りたまま、私は木々に支えてもらう。
 ふっと振り返った先に目が合って、私たちは二人で微笑んだ。
「今度は失敗しない」
「よろしくね」
 少し無邪気な香りのする彼の言いぐさに付き合って、冗談めかして彼を頼った。
 そして、ハルクと平行して進んでいく。暗い暗い、木々のざわめく林へ。
 枝を伸ばして、次々と橋渡しをしてくれる木々も、少し不安がっているようだった。
 横目に見たハルクは、真剣を顔に浮かべて、警戒した姿勢で進んでいた。
 ……何、これ。近づくにつれて、おかしな魔力を強く感じる。
 ザワ、と風が吹いたと同時に、ハルクが跳んだ。いや――飛んだ。風の魔術を利用して、空気を踏むように飛び上がる。
 次の瞬間には、彼がいた場所に、巨大な獣が突進してきていた。
 荒々しい吐息、ぎらぎらとして血走った瞳に、おぞましい魔力。クマのような、しかし物凄く巨大なその魔物は、ハルクを目で追い、けたたましい咆哮を上げた。
 風を踏み続けていたハルクは、眼下の魔物に視界をやって、ひらりと身を翻すと共に、魔物の背に向けて剣を突き立てながら落下し始めた。
「シルフの織風、我が剣に纏え――!」
 彼の詠唱は、初めて聞いたが、それは風の精霊に対する敬意をはらんでいて、つまり、彼は属性魔術の使い手にも関わらず、今の術は精霊魔術の要素を織り混ぜた術だということ。
 剣から巻き上がる風が、彼の髪を振り乱した。そして、鋭い一陣の風のように、急降下。
 怪物の叫び声が静かな森に響き渡り、彼の攻撃が当たったことをさとる。
 しかし――。
「ガッ」
 剣を片手に、ハルクが魔物の前足の下に敷かれるのが見えた。
 助けなくちゃ――。
 そう思って、私は思考をめぐらせる。不思議と、先ほどより落ち着いて考えをまとめられる。
 魔物は前足だけで立ち上がることは不可能だと考えれば、今の状況下ではその場所を動かない。とすると、私の今の居場所や、魔物の注目している方向から考えれば――いける。
「母なる大地の下、我が兄弟の強い命よ、我の魔力と、偉大なる太陽を糧としたまえっ!」
 陽の光が当たるように、木によじ登って鏡を天にかざす。木々の興奮した魔力が、自分の血液のように脈打つのが感じた。
 それはいささか速くなりすぎて、私は息苦しさを感じたが、振り払って集中する。
 ハルクを見ると、彼はなんとか組み敷かれながら応戦していた。
 あと数秒――持って!
 魔物の真下、ここから500メートルほど向こう。どうか、優しい魔力は避けて……。
 ――お願いっ!
 一気に練った魔力を解放する。地が轟き、強い生命力が、『来たる』!
 狙い通り、魔物直下。固い地面から芽吹いた緑は、みるみるうちに伸びて強い枝へ、幹へ。そして、魔物の身体を突き刺し、囲う木の檻に。
 私はその光景を、ちらつく視界の中で、なんとか意識を保ちながら眺めた。
 ハルク……、は……。
 視線を動かすと、彼の着ていた青い上着が、ちらりと見えた。脱力した腕を、身体を、木々が優しく支えていた。
 魔物は鳴き叫びながらもがき暴れるが、木々は容赦なく力強く伸びていく。
 やがて動かなくなった魔物を見て、私は胸をほっと撫で下ろすと、腰かけていた木に、ハルクの近くに運んでもらう。
 彼は、ひどい出血をしていた。肩や腕を主に、しかし守ったのか、胸より下は無事で。
 木の檻に支えられて、楽な姿勢で横たわっているにも関わらず、荒く息を吐いていた。
 私は、彼を支えていた木々から開放して、地に寝そべらせた。
「……っは、あと、十分くらい……ちょっと、休ませてくれ」
 笑おうとしたのか、口をしっかり動かそうとしたが、弱々しく震えるのみだった。
 私は、七割方放心状態で、彼の隣に寝そべった。足は、まだ痛くって。
「……うし!」
 しばらくした後、少し疲れてはいたが、元気な声を上げて、ハルクは起き上がった。
 私はと言えば――。
「や、ばい……。も、起き上がれないかも」
 身体の末端に、神経が通っていないような感覚。魔力を使いすぎたんだ……。
「……お疲れ様でした、ってとこだな。背負っていいか?」
 力なく頷いて、脱力した身体に腕を回して身体を起こしてもらって――。
「仕方ない、から、我慢してくれ」
 最後に聞いたのは、そんな言葉だった気がする。


 学校に戻る前に、日は落ちてしまった。自分は気にしていなかったが、この子が日没を嫌がっていた理由を、やっと理解した。
 月明かりが彼女のさらさらの髪を滑るように照らす度、それは髪を透かすように、銀の光を与える。
 最初に気がついたとき、はっとして、息を飲んだ。
 昨晩初めて見かけたときは、銀髪の少女なのだと思っていた。屋内に入って、ふと見たときに、その黒髪を見て、驚いたものだった。
 月の光に似つかわしい、美しい色。確かにこれを見て黙っている人間は少ないだろう。
 自分の傷があるといっても、小柄な彼女を抱えていることは大した苦ではなかった。
 それよりも、彼女の食いちぎられたブーツから見える細い足首が痛々しい赤黒に染まっている方が気になった。
 きっと、傷を負うことは慣れていないだろう。襲われたときの彼女は、ひどく恐怖していた。
 一通り自分の目で楽しむと、ローブのフードをその小さな頭に被せてやる。髪も、外に見えないように首元へ回して、ローブの下に少し押し込む。
 それにしても、彼女の魔術には少し驚いた。最初に戦っているときの彼女のそれは、丁寧に、まさに『織り上げられた』魔力だったのに対して、最後の大魔術は、自分までも、血の、魔力のたぎるのを感じた。略式はなしに、出力の大きさで強化された魔術。
 それに、彼女は自然に愛されているのだろう。彼女が慈愛に満ちた瞳で木々を見つめるのだから、木々もきっとそうなのだ。
 自分にはない、様々な力が、この子にはある。
 自分の手元を見下ろして、笑った。
 フードに隠されたため、小さく結ばれた口と鼻だけが見えているが、一度見たあの髪は、忘れられない。
 青い瞳に銀の髪……。目を開けたら、どれだけの美しい色か。
 愛情の入り込む余地があるのかないのか、そんな話にも発展しない。ただ純粋にそれが見たかった。


「……イール! 大丈夫?」
 意識が戻り、まぶたを開けた途端に、心配そうな表情のユーリアが飛び込んできた。彼女もまた依頼の後だというのに、駆けつけてくれたのだろうか……。
 ここは……ええと、医務室だ。そのうちのベッドの一つに私が横たわって、脇の椅子にユーリアが座っている。そして、隣のベッドから、ハルクと、誰か知らない男の子の話す声が聞こえた。
 ふと窓の外を見ると、夜も夜で、空は真っ暗になってしまっていて、私はぎょっとした。
「ユーリア、私いつ帰ってきたか知ってる?」
「日が落ちきったちょっと後かな……。私はそのときはいなかったからわからないわ」
 もう、仕方ないかな。ハルクに髪をまじまじのレベルで見つめられた可能性は高く、他の生徒にも見られたかもしれない。
 しかし私は身体を起こそうとして、フードが寝転がった状態で脱がされたのだと気がついた。多分、かぶせてくれていたんだ。
「足、大丈夫? 先生が治癒魔術を十分かけてくれたけど、治すのはあなたの身体だから……」
 ブーツの脱がされた足首には、綺麗な白い包帯が巻かれていて、ぶらんぶらんだった状態より全然マシだし、痛みもかなり引いていた。
「うん、大丈夫そう。私は足しかケガしてないし」
 身体をしっかり起こして、ベッドの上に座ってユーリアと同じ目線で向かい合う。
「でも、魔力使いすぎたんでしょ? あなたにしては珍しく」
「そう……だったね。なんか、必死になったら魔力注ぎ込みすぎちゃったのかな」
 ユーリアの肩越しに、彼もまた身体を起こしていたハルクと目が合って、私は気まずさに反射的に逸らしてしまった。
 そういえば私、完全にケンカ、というかいがみ合ってたのに、すごく親しくしちゃった……。
 元はといえば、彼が急に優しくなるからいけないんだ。お風呂の件には一言も謝らなかったクセに、私が噛まれたときは何度も何度も自虐していた。
 顔ごとふっと背けた私を見て、ユーリアは後ろをちらりと振り返って、笑った。
「ハルク君とちょっと話す?」
「だっ誰が」
 一瞬見ただけじゃ彼の今の態度はわからないし……いつの間にか、あんなに意地張っていたのに折れている自分も悔しかった。
「おじょーさん。ハルクと話したくないなら僕と話さない? 君の魔術の話、もっと聞きたいな」
 唐突に優しく陽気な声で話しかけてきたのは、ハルクのベッドの手前側の脇の椅子に座っていた男の子だった。
 緑のツンツン頭に、切れ長の眉、黄金色の垂れ目。――あれ、この子、見たことあるかも……。
「あ、彼、私のペアだった子よ」
「ワンダ・コリアスですっ。僕、君のこと知ってるよ、見たことある」
 ワンダ・コリアス――その名前を頭の中で繰り返していると、一つの引っかかりが見つかった。
 もしかして……いや、そうとしか。
「風の神子の、ワンダ・コリアス……?」
 お家柄上、様々な魔術師から逸脱した、風との親密性。まさに風を操るように戦うという彼は、自然魔術師の中でも有名で――。
「そーうそう! 知ってくれてるとは嬉しーな。それでさ、君の魔術の話、聞かせてよ」
 足を開いて両手をその間につき、首を傾げる。黄金の瞳は、好奇心で爛々と輝いている。
 魔術の話、って言っても。
「私、イール・ミュスタっていうの。……あの、私の魔術、習ったこととか魔術書に書いてあることだけなんだけど……」
 アレンジのレベルに踏み込んでいるものなんて一つもないし、上級の魔術書――といっても図書館にあるだけ、は月のものしか読んでない。
 しかし、ワンダは面白そうに笑った。
「それがすごいんだよね。自然魔術師って自然の魔力に触れた途端に、自分の意思とは違う魔術に発展しかけるものでしょ。僕なんて習ってる風の魔術使えないし。でも君は、聞いたところによるとちゃんと自然との調和もとれてるにも関わらず、きっちり魔術が使える。上位級を習ったり、アレンジ、創作魔術を教わったら、化けるよ」
 目を細める彼は、確かに有名人だし実力はありそうだけど、自然魔術師の実技順位一位は、違う人だし……。
 でも、私の魔術なんて、スタンダードをまじめにやっているだけ。すごいことなんかじゃないでしょ。
「木の檻ってすっごいシンプルな構成の魔術だけど、僕が同じことやろうとしたら多分、無駄なとこに力使っちゃうしね。……例えば、これ、できる?」
 手の平を上向きに上げて、瞬時に風の塊を生成する。荒れ狂う疾風を球の中心に向けて、それぞれが調整されてるんだ……。
 私も同じことを試そうとしてみる。風を呼び出すんじゃなくて、そのまま捕まえてまとめる感じなのかな。力ずくにもできるんだろうけど、彼は涼しい顔でやってるから、きっと何かコツがある。
 そう、例えば、竜巻は水平方向に風を纏めるならば、それを垂直方向にやって、斜めにずらしていけばいいのか。
「集風、竜巻」
 おそるおそる風を集め、それを丁寧に重ねてみる。弱い風の塊が、だんだんと鋭くなっていく。
「……や、ばっ」
 危険を感じて、集中を放棄する。やりすぎそうになった……。
「竜巻の応用でやろうとしたのか。それだと大分器用じゃないと難しいかもね。じゃ、僕の種明かし。詠唱は、するなら『集風』だけ。初級の初級なんだよ。応用魔術っていうのは簡単な魔術を応用して強力な魔術になるけど、その応用する元の魔術も、初級の初級の魔術の応用だと考えると、初級の魔術の応用でほとんどの魔術はできるってこと。だけど、その攻め方は悪くないよ。その方が知的だもん」
「な、なるほど……っ! 全然詠唱なしでできるのね」
 繊細そうな魔術だったけれど、多分、集めた風を操る基礎的な術なのだろう。
 あんまり、そういう風に考えたことがなかった。私は自分の使える魔術を駆使するだけの思考をして、どうにかやりくりしている。
「ワンダ、病人にあまり無茶をさせるな」
 あれこれ考えながら、ニコニコするワンダを見つめていると、ハルクの低い声が彼を咎めた。
「はーいはいはい。じゃ、また話そーね、イールちゃん。よかったら、僕に君を鍛えさせてよ」
 明るい笑顔を浮かべて手を振った彼に、私もにこやかに振り返す。こういう雰囲気の男の子は、あんまり嫌いじゃない。
 ふふ、と笑ったユーリアと目が合って、ちょっとはしゃいでいた自分が恥ずかしくなる。
「あっ……。ハルク、傷は大丈夫?」
 むすっとした顔をしていた彼に、ようやく話しかけると、彼はそのまま頷いた。
「お前、数時間で魔力が戻るわけないんだから、魔術使うなよ。明日は休みだけど……。多分お前が思っているより重症だよ」
 私が全部悪いみたいに言うから、ちょっとイラっとした。確かにそうだけど、別に何事もないんだからいいじゃない。
「アンタも休みなさいよ、ケガしたまんま歩いてたんだから」
 最後には割と元気に歩いていたけど、あれだけ出血して平気なはずがない。
「アンタ、に逆戻りかよ。せっかくそれなりにお前の機嫌とれたと思ったのに。……それにお前の足の方が酷いだろ。俺は歩けるくらいにはどうってことなかった」
 ……あれ、私――。そういえば、君とか、ハルクとか、呼んでしまっていた……。
 私は、彼と仲良くする気はないのに、でも。
「……いっぱい、助けてもらっちゃったから、もーいいわよ。だから、おあいこっ! ね、君も私のことバカにするのやめてよ」
 おんぶしてもらっちゃって、帰りも……運んでもらったの、かな。
 彼の実力はちゃんとわかったし、それなりに、優しいし……。
「俺が、いつお前をバカにしたっていうんだよ……」
 はぁ、と溜め息をつく。
 そ、そりゃだって、昨日のことに関して、ハルクは……っ!
「あなたたち、いつの間にか仲良くなっていたのね。ユーリアさんとしては安心だけど。それにハルク君も案外いい人だし? イールに手、出さないって約束してくれるなら任せられるわね〜」
 じ、冗談じゃないわよ、ユーリア……。
 絶対この人にとって私はちょっとめんどくさいやつなだけだし。っていうか私なんかに、こんな――。
「じゃ、私そろそろ食堂行くわ。あなたの分、後で持ってくるわね」
「……お願いします」
 絶対、私が顔を真っ赤にして反論しようとしたタイミングを見計らった……。
 ユーリアには勝てない。正直に言うと、彼女はハルクより強い。色んな意味で。
「俺もアインに頼んでおいてくれないか」
「あら。わかったわ、ごゆっくり」
 何を思ったのか、二人ともなんとも言えない表情で対話をしていた。
 ……なんなのかしら?
「……ハルクも立てないほど、ではないわよね?」
「お前が思ってるよりピンピンしてるぞ。あれくらいどうってことないし、慣れてる人の方が治癒魔術は効きがいい。――ま、お前一人で置いとくのはできないし」
 そう言った彼は、彼らしく自信たっぷりに口角を上げた。
 ……こう見れば、本当に綺麗なんだけどね。
「そ、そーなの。そりゃ、こんなとこで一人は暇だけど」
 自然もないし。と言っても、今、魔力が弱まっているせいか、あまり自然の魔力を感じない。
 そう呟いた私を見て、ハルクは噴き出した。
「案外っていうか外見通りっていうか、お前ってバカだよな」
「ば、バカって何よっ!」
 ほら、早くもバカにした。何か私が勘違いでもしていたとでも……?
 私が反論しようと、一時寝そべっていた身体を起こす間に、彼は自分の布団を抜け出して私のベッドの横の椅子に腰かけた。
「魔力が弱まっていて、足はケガしてる。襲われたらお前は何もできないだろ」
 瞬間顔が発熱した。コイツはそんなこと考えて……っ!
 だけど、怒る気にはなれなかった。ハルクは真剣極まりない表情を浮かべていたから。
「……心配する必要なんてないわよ。私に限って」
 どんくさくて素直じゃなくて、意地っ張り。余裕たっぷりで大人なユーリアとかと比べたら、ただの女の子だし。
「誰彼構わずそーゆーコトするやつを知ってるから言ってんの。お前のことだって――」
「誰、誰? そーゆーコトするやつって」
 低い声が、少し高く甘い笑い声によって遮られる。
 私と目線を近くしていたハルクは、背後を心底嫌そうに睨んだ。
「お前に決まってんだろ」
 医務室の入り口に佇んでいたのは、アイン君だった。面白そうに、形のいい唇をすっと引いて笑う。
「冗談きっついな〜! そんなコトしてるわけないよ、ね、イールちゃんもそう思うでしょ?」
「へ、え、うん」
 アイン君に限って、まさか……。だけど、ユーリアの、アイン君は超がつくチャラ男だという評価も引っ掛かってはいた。
「お前、コイツに騙されてるから……。てか知らねぇのかよ、アインが女をどんな風に……」
「はいはいそういう汚い話、こういう子の前でしちゃダメでしょ。イールちゃん、安心しといて。俺、ユーリアちゃんに脅されてるから」
 絶対仏頂面をしているハルクの後ろ姿越しに、アイン君は苦笑いをした。ユーリア、一体何を……。
「それにしても、君も全然元気なのに俺を使うとか、やるねぇ。イールちゃんとの時間を邪魔して悪いけど、ピンピンしてんなら自分の足で来いっての」
 アイン君は笑って言ったけど、その笑顔の後ろに黒い何かが見えたような気がした。……この人、やっぱわかんないや。
「嫌だ。ぜってー何か言われるじゃねーか」
 不思議と、アイン君に反抗するハルクは少しばかり子供みたいで、私は首を傾げた。
 そんな彼をアイン君は面白そうに鼻で笑う。
「イールちゃんをお姫様だっこしたまんま学校に入ってきたもんねー。お前のファンは泣いてたぞ?」
 ……ちょっと待て。
 私は、ハルクの後頭部を睨み付けて思考した。
 確かに私は彼に運んでもらったとは思うけど、ちょうどその始めから最後まで記憶がない。運ばれ方を考えたことはなかったけど……。
「ハルクさん、お聞きしますが、今のは本当デスカ」
 だって嫌よ? こんな顔はイケメンで成績優秀で、明らかに面倒そうな女にモテる人に、その、お姫様だっこされてるとこ見られたなんて!
「仕方ないだろ。意識がないのにどうやっておぶるんだよ」
 言い訳みたいな言い方だったから私はカチンときた。大体、乙女をそう簡単にお姫様だっこだなんてな……!
「安心してイールちゃん。君はフードかぶってたし、みんなあんまり気にしてない。あぁまあ一緒に歩いてたらさすがにバレるかもだけど」
 爽やかに笑みを浮かべながら、アイン君はフォローする。バレる可能性あるなら嫌じゃない……っ。
「そもそも俺とお前の間にやましいことなんてないだろ。ケガしてるお前を俺が運んだだけだ」
 言い訳じゃなくて、開き直るような態度に、私はますますイライラして、身をよじって彼に近づく。
 瞬間、手が伸びてきて私の肩をがっしりと掴む。
「動くなよ。お前の足は重傷だ」
 確かにそうだし心配してくれるのはいいけど、足に負担をかけないように動く分にはいいでしょ……っ!
 けれど、鋭い眼孔に咎められて、私は口を尖らせたままつぐんだ。
「わ、私が面倒事に巻き込まれたら……責任、とってよね!」
 せめてもの報復でそういい放ってやると、後ろのアイン君が噴き出した。
「イールちゃん、それ、ちょっと違う。……ま、ハルクにとってはいいんじゃない? イールちゃんみたいにかわいい子傍に置いとけば、女の子避けになって」
「だ、誰がっ」
 そんなんでハルクのお役に立つ気なんてさらさらないわよ!
 しかし、ハルクは面倒そうに頭をかいただけだった。
「そろそろお前、それ置いて失せろ」
 はいはい、と適当に返事をしたアイン君は、手に持っていたパンの入ったカゴを脇の机に置いて去っていった。
 私は、ムッとした顔でハルクを見つめていたら、ふっと振り返った彼と目があった。
「やっぱり、君、モテるんじゃない」
「ゴミみたいな女に媚売られることをそう言うならな」
 その言い方はあんまり酷いんじゃない、と思ったけれど、そういえばこの人は割とこういう物言いをしていたのだった……。
 彼にとってゴミみたいでも、恋する女の子のパワーは怖い……と思う。私が嫉妬なんて買ったら嫌だ。根も葉もない噂話とか。
「お前だって、色んなやつに目つけられてんじゃん」
「はい……?」
 私、ろくな男の子に女の子扱いされたことないけど……。
「アインが珍しく長く皮かぶってるし、あのワンダが一生懸命になってた。……ああ、これだけで俺の方より面倒かもしれないぞ」
 私、アイン君のこともワンダ君のこともあんまり知らないけど……そうなのかな?
 って、ふとユーリアの物言いを思い出して青ざめる。
 ……三人とも、彼女に言わせたらイケメンだ。つまりイケメンで通ってる。
「うわぁぁ嫌だぁぁ……めんどくさい……」
 別に三人と仲良くしたくないことはないけど、もし外で親しくされたら、恐ろしい。いっそのこと、無難な男の子と――。
「いっそのこと、付き合うか? 俺は構わないけ……」
「ばっバカ! バカ! ハルクみたいのがそーゆーの言うのシャレにならないから! 綺麗な顔してそーゆーの言われたら女の子みんな死んじゃうから!」
 顔は真っ赤だろう。ハルクが面白そうに言ったから冗談だってわかってるけど、だってシャレにならない。っていうかそっちの方がめんどくさい。
 私があわあわしてまくし立てたのを聞いて、彼は目を丸くして驚いて、そして笑った。
「綺麗な顔とか思ってくれてるんだ」
「……今私そんなこと言った?」
 ヤバい、腹が黒い人なら絶対これをだしにされる。そう思ったけど、ハルクは嬉しそうに笑った。
 でも勘違いはしないでほしい!
「言っとくけど、アイン君もワンダ君も綺麗だからねっ!」
「ああ、はいはい。イールの銀髪も俺は綺麗だと思うよ」
 子供をあやすような口調でハルクは朗らかに笑ったけど、後半の言葉に、私は――。
「――髪の話はしないで。冗談ならもっとやめて」
 キッと彼を睨み付ける。彼の睨みより怖くないだろうけど、彼は一瞬怖気づいていた。
「……すまない」
 ハルクは椅子から立ち上がって机のカゴを手に取る。
「これ、二人分だ。お前の分も持ってきてくれたのか」
 彼の言葉を聞きながら、背中に向けて倒れ込む。ぼふっという音と風を感じる。
「ほれ」
 ちょっと拗ねている私の頬に、クロワッサンを突きつけてくる。
 髪のことは、本当に嫌だった。これのせいで私は苦労してきたんだから。
 考え事をしていて微動だにしない私に、クロワッサンは一度離れる。
 そして、直接唇に当ててくるから、私はそっと口を開けたら、ガッと突っ込まれる。
「む〜、ーっ!」
 喉の奥までクロワッサンがすっと入り込んで、むせそうになる。とりあえず抗議するけど、噛まないことにはクロワッサンは退治できなくて。
「……ヤバい。変態だったら興奮しそうな顔してる」
 そんな顔でそんなこと言うなら、君が変態じゃないの――!
 そう言いたかったけれど、クロワッサンをモグモグしていて言葉がでない。
「何すんのよっ!」
「魔力回復するならいっぱい食え。そうじゃなかったら誰かに供給してもらえ」
 自分もまたパンをくわえながら、私を見下ろして言うハルクを睨み付ける。
 魔力供給なんて、触れない方法じゃなかなかできる人いないんだから無理に決まってる。頼み込める先生が、――いないわけじゃないけど、ちょっと癪だし。
「お前、外で俺と関わんなくていいから」
「…………」
 なんで、そんなこと言うのか。
 そりゃあ勿論面倒事には巻き込まれたくないし、こんな学校にいるクセして色恋沙汰に敏感な女の子たちにありもしないこと噂されたりするのも嫌だ。
 だけど、数少ない私の秘密を知って、でもちゃんと分かってくれてる人――。
「何でかな、君とは、関わりたくなくても、何かしら縁がありそうな気がするの」
 昨日あんなことがあって、今日こんなことがあって。
 たまにイラっとすることもあるけれど、身体は心配してくれるし、別に一緒にいて悪い気はしてない。
 そもそも、私には仲がいい友達が少なくって。
「そうか。――一人で部屋に帰れるか?」
 ハッと、昨晩のことが思い出される。同じ台詞を、けれど、私が返答を選ぶ権利がある台詞を、ハルクは問うた。
 そういえばまだ一度も立とうとしていなかったから、私は身の方向を変えて、地面にそっと足をついた。
 ハルクがさり気なく左手をとってくれる。私はそれを支えにして地面に立とうとした。
「立てない……ことは、ない。けど、歩くのはキツいかも」
 再度柔らかいベッドに座り込む。素直に言わないと、多分色々うるさいから、素直に言った。
 すると、彼は少し困ったように頭をかいた。
「ユーリア呼ぶ、か……。途中まではついてくよ」
「うん。そういえば、何で先生はいないの?」
 私が目を覚ましたときから、医務室の先生の姿はなかった。
「依頼先で事故ったヤツがいたらしくて、俺とお前を治療した後に出て行った」
「そう、なんだ……。今回の実習って、危ない依頼も多かったのかしら」
 私たちの方も、Aランクとはいえ、二人ともケガをした。正直二人が精一杯頑張ってやっと、というくらいだったと思っているもの。
「ワンダとユーリアは、楽勝だったらしいが。ま、二人とも特殊な魔術だから、成績とは少しずれていたのかもな」
 確かにあの二人はピンピンしていたというか何事もなかったかのような涼しい顔をしていたわね。
 アイン君も今朝見た時と変わらなかったし、やっぱり差はあったのかもしれない。
「そんじゃ……ユーリア、呼んでくる。見つからなかったらどうにかするけど、とりあえず待っててくれ」
 今度は一人にされるけれど、元々別に不安でもなんでもなかった私は、頷いて再度ベッドに寝そべった。
 ハルクはケガしたの、本当に自分のせいだなんて思っているんだろうか……。
 そうなら、私はもっと頑張らなくちゃ。また誰かと依頼に行くときに、誰かの気を負わせないために。
 目を一回閉じてから空腹に気がついて、ハルクがベッドのそばに置いていったパンのカゴを引き寄せた。


「ユーリア……お風呂、入り……た、い……」
「あなたそんな状態で入ったら溺れるわよ。疲れたなら明日の朝にすればいいじゃない。私もついて行ってあげるから」
 部屋に帰った後、安心か何か、急に襲ってきた眠気だったが、私はお風呂に入りたくて、ユーリアに請うたが、ばっさりと切り捨てられた。
 さっきまでいっぱい寝てたのにな……。
「魔力が足りないのよ、きっと。明日とあさってで治さなきゃ授業キツいんだから、いっぱい寝たらいいわ。あさっての夕方までに本調子じゃなかったら、先生のとこに連行するからね!」
「う、それだけはやめて……」
 絶対気が済むまでバカにされる。でも私はあの人に逆らえないし……。
 ベッドに寝転がって枕を抱きしめながら、うとうととする。
 うん、でもやっぱりユーリアの言う通りに寝た方がいいよね。
「おやすみ、ユーリア」
「おやすみ」
 少しひんやりとした枕が気持ちいい。やっぱり自分の部屋よね。
 なんて思っているうちに、まぶたが落ちて、私は夢の中へと入り込んだ。


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