君の隣で、

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 肩に置かれた手の、予想以上の大きさに、その暖かさに、愛しさを覚えた。
 泣き虫で、怖がりで、頼りにならないって。
 そんなイメージなんて、その一瞬で吹き飛んでしまった。
 弱いところで頼らせてくれる人に惚れるなんて、当たり前なんだ。
 だから、彼が特別なんじゃないんだ。
 そういう風に言い聞かせても、胸の鼓動は止まなくて。
 気がついたら、振り向いたその胸に埋まっていた。
「彩希。泣くんじゃねえよ」
 知らない。
 知らない。
 こんな人、知らない。
 私は今、知らない人に抱き締めてもらってるんだ。
 この広い胸が、あの子のものだなんて、信じたくない。
 私が、弱い子なんだって、認めたくない。
「恭……恭なんだよね」
 なのに、どうして聞いてしまうんだろう。
「何言ってんだ。俺は俺だよ」
 笑みを含んだ、聞き慣れたその声は、見慣れたはずのその骨ばった腕は、私を安心させてくれる。
 しかし、どこかで、違う、違う、と心がざわざわする。
 ねぇ、君はいつからこんなに大人になってしまったの?
 私を置き去りにして、強くなってしまったの?
 今の涙は、悲しいことがあったからだけど、君に置き去りにされたのが悲しくて、もういっぺん泣きたい。
 そして、いつまでもこうしていてほしい。
「彩希が泣いてるとこなんて見たくねぇよ」
 そんなこと、恭は恥ずかしがって言おうともしない。
 例えその全てが本心じゃないとしても、私を安心させるための冗談だとしても、あの子はそんなこと言わない。
 何も言わずにこうして抱き締めてくれたりなんかしないんだ……。
「ねぇ……恭、私」
 涙を堪えて告げようとすると、私を抱き締める腕の力が強くなった。
 そして、耳元で「何も言うな」、と低く囁いて、私を黙らせた。
 恭は……全部わかってくれてるの?


 中学生のとき、公園でうずくまっている恭に声をかけたのが出会いだった。
 線が細くて、まるで女の子かと思うような小柄な男の子は、泣いているみたいに見えた。
「……どうしたの?」
 声をかけたら、彼ははっと顔を上げて、赤い目と溢れる涙を隠すように乱暴に拭った。
「なんでも……」
 恥ずかしくない訳がなかっただろう、私はそのとき、ちょっと失敗したな、と思った。
 男の子は立ち上がって去ろうとしてたけど、私はどうしても気になって、引き止めてしまった。
「ねえ、何かあったの?」
 その時は、何の迷いもなく、年下だと思っていたから、上から目線で話しかけてしまっていた。
「カンケー、ない」
 まだ震える涙声でそう言い放った彼は、近くの地面に落ちていた鞄を拾って、よろよろと立ち去ってしまった。

 彼が、私と同じ学校で、しかも同じクラスだったということに気がついたのは、次の日だった。
 四月も終盤といった頃だったけれど、近くの席の、女の子とばかり話していたから、あの男の子の存在には気がついていなかった。
 それに、昨日会った時には髪も乱れて、泣き腫らした目をしていたから、よく見たら見覚えのある顔に気がつけなかった。
 彼の名前は柳下 恭(やなぎした きょう)というと、友達に聞いて、それから私は毎日柳下君のことが気になって仕方がなかった。
 暗い訳じゃないけれど、無口で、それに少し臆病みたいだった。
 勢力の強い男子集団にからかわれて、悔しそうな顔をしながら、耐えているのを見るのは楽しいものじゃなかった。
 彼は、公園で会ったときから私のことに気づいていたのかもしれない。
 どちらにせよ、時たま攻撃的ともとれる視線を一瞬向けて、すぐに逸らしたりしていたから、翌日には気づいたみたいだった。
 ある日、放課後に昇降口でたまたま柳下君を見つけた時に、話しかけてみた。
「あの……あの日、どうして泣いてたの?」
「……言っただろ、カンケーないって」
 そっけなく言い放ってそそくさと帰ろうとする彼を、私は今度こそ引き止めようと努力した。
「あのさ……あの、私、柳下君のことが気になって」
「……どうして? 俺は別に勝手に泣いてただけだし、牧田は悪くないだろ」
「何かあったなら、力になりたいなって」
 私は、一人っ子だったけど、昔から近所のちびっ子のお姉さん役だったから、ああいうのを見過ごすのができなかった。
 それ以前に、柳下君のことが気になって仕方なかった。
「あー……めんどくせぇ。牧田が力になれるようなことじゃないんだよ……笑うなよ」
 ちょっぴり笑って顔を赤くしながら言う柳下君は、まだ幼い容貌とあわせたら、私にしてみればかわいくて仕方なかった。
 彼から聞いたあの日のことは、こういうことだった。
 野良犬か、迷子がわからない犬を追いかけて、公園に来たら、大学生くらいの男の集団がいて、昼間から酔っ払ってるようだった。
 気が動転しているのか、走っている犬はそのまま大学生の集団に突っ込んで、一人を押し倒してしまった。
 それからが残酷で、男達は大型犬といっても、やせ細った犬をさんざん蹴ったり殴ったりして、動かなくなるまで虐待した。
 柳下君は、自分がもう少し前に捕まえていれば、あんなことにならなかったのに、と思って泣いていたという。
「……優しいんだね」
「他の人間が酷いだけじゃないか」
 ぼそりと呟いた横顔は悲しそうだった。

 それから、私は柳下君と機会があれば少しずつ話すようになった。
 学校の外でも、あの公園でよく会うし、何より家も近かった。
 私と話して、少し自信がついたのかわからないけど、内に秘めていた強い意思が垣間見えることが多くなって、私は少しほっとした。
 昇降口で会ったら自然に一緒に帰っていたし、周りのクラスメイトはあんまり気にしていないようだった。
 私と柳下君……恭は中学三年のうちにすぐに仲良くなって、幼馴染みたいな関係になっていた。

 何にも話し合ってなかったのに、同じ高校に入って、それから恭はがらりと変わっていった。
 クラスに陽気な友達ができたらしく、少しずつ、少しずつだけど明るくて、年相応に不真面目になっていった。
 そして、中学の間、ゆっくりとしか成長せず、あどけなさの残っていた体型は、その線の細さを残して、大きな変化を遂げていた。
 中学生の時に、何度も何度も私の前で泣いていて、しかもその理由が大体自分への悔みで、私はその度恭を慰めていたけど。
 高校に入学してからは、その話を少しでもすると怒るし、全然泣かなくなった。
 出会った翌日に、初めて意識して見つめていたあの悔しそうな顔も、しなくなった。
 自分の意思で行動して、理の適っていないことには反発する。
 正義心はそのままに、勇気のある少年になってしまった。
 私は薄々感じていたけど、認めたくなかった。
 いつまでも友達みたいに、弟みたいに思っていられたら、幸せだと思っていたから。


 高校に入って初めて告白されて、付き合っていた人にフられた時、執着しているつもりはなかったのに、何だか涙がこみ上げてきて。
 きっとそんなに深い理由もないことをたくさん想像してしまって、何年ぶりかもわからないくらい久しぶりに泣いた。
 そんな時に、恭がたまたま私を見つけてくれた。
 いっつも同じ道を通って、あの公園も通るのだから、当たり前といえば当たり前だった。
 心では期待していたつもりはなかったけれど、体はいつの間にか期待していたのかもしれない。
 一度も、私が頼ったことのない、恭を。

「ねぇ、恭、私、そんなに色気ないかな」
 恋人の、本人の口から直接告げられた新しい想い人を思い出すと、自分の魅力のなさに泣けてくる。
「相崎は発育が速すぎるだけだよ」
 恭は昔から変わらないように、冷静に思っていることを言ってくれた。
「……恭はどう思う?」
「彩希は彩希で、相崎は相崎。違う人間なんだから、比較できるところなんてないだろ……。比較して人を判断してるヤツがいるとしたら、そいつはサイテーだ」
 違うんだよ、恭。
 私はそんなことを聞いているんじゃなくて。
 恭が私をどう思っているのかが聞きたいんだ。
「……ねぇ、私、恭をこの公園で見たとき、ちっぽけだなあって思ったんだよ」
「……その話は」
「でも、どうして? どうして恭はこんなにも――」
 恭が私の言葉を制した。言わないでくれ、というように、歪んだ表情を浮かべて。
「彩希、俺だって、もう一人前の男だよ」
 静かに、ひとつひとつ噛み締めるようにそう言った。
 嘘だ、私はそんなの認めてない。
「さっきの問いに、ああいう風に答えちまったのは、俺が彩希と同じこと考えてるからだろうなあ」
 参った、というような乾いた笑い声を上げて、恭はサーモンピンクの空を見上げた。
 ――どういうことなの?
「私、恭に頼るようになるのが怖い……」
「ああ、俺もこんな風になっちまうのが怖い」
 お互い顔も見られず、私は俯いて、恭は空を仰いでいる。
「恭は、私を残して、大人になっちゃったの……?」
 恐る恐る呟くように聞くと、恭はまたひとつ笑った。
「多分な、彩希が先に、もう既に大人になっちまってただけだよ」
 どこか寂しそうに言うから、確かに私たちの考えていることは同じなのかもしれない、と思った。
「俺な――」
 言い出しそうに切り出した恭の横顔を伺った。
「彩希が、志田と付き合い始めたときに、何だかスッゲーショック受けちまった」
 志田君――もう、私の元カレ、になる――は、恭とも仲がよかったんだっけ。
「その時、泣いたのが最後だ。俺も、彩希も変わっちまったんだと思って、割り切れるように、泣かないって決めた。そしたら、案外あっさり泣き癖はなくなったからさ」
 嘘、ねぇ、恭、嘘だよ。
 今、そうやって笑いながら嗚咽を隠したって、私にはバレてるって、気づいているんでしょう?
「ちょっと寂しかった。彩希にまた慰めてほしかったんだなぁ」
 わざとらしくおどけてみせたけど、恭は私に顔を見せようとはしなかった。
「さっき彩希の背中を見つけた時、いつもと違うなって気がついた時、志田を殴りたくなった。全然頭では理解してなかったけど、それは間違ってなかったって、お前の顔見たらわかった」
 恭は、本当は何にもわかっていなかったのに、私を安心させてくれていたの?
「なぁ、彩希。彩希は変わるのが怖いか……?」
 もう、声が震えてる。あの時みたいに、話すのもやっとなんでしょう。
 私が、慰めてあげる番なんでしょ――
 そう思って、息を吸い込んだとき、隣の恭が私の手を引いた。
「この問いに意味なんてない。さっき答えは聞いたから……。彩希、無理すんな」
「無理、してるのはっ……恭の方、だよ」
 嘘つき。二人とも嘘つきだよ。
 私だって息が詰まりそうなのに。
「なぁ……さっきの言葉、ちゃんと聞いてくれてたか……?」
 どれのことだろう。
 考えていたら、恭はちょっと残念そうに笑った。
「やっぱ、わかってくれないよな……」
 繋いだ私の右手と、恭の左手が、体温も繋いでいるから、恭が照れてるって、よくわかる。
「私、わかるよ」
 本当は自信がなかったけど、そう言ってみせた。
 最後にちょっと見栄を張ってみたかった。
「多分、同じこと思ってると思う」
 だから、一緒に伝えればいいんだ。
「ああ……そうかなぁ」
 頭をかきながら恭が私の目をしっかり見つめてくれる。
 二人一緒に息を吸い込んだ。


「好きだよ」


 二人が変わらなければ、きっと芽生えなかった。
 頼り合える関係にならなければ、きっと押し殺していた。
 絶妙なバランスで渡り合っている恋心は、どんなものにも負ける訳ないんだ。



「……素直だよね」
「他の人間が偏屈なだけじゃないか――なんてな」
 あの日みたいに、でも今度は笑って、恭は認めてくれた。
 もう、悲しむことは、ないものね。


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