ハッピーバレンタイン

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「好き、だったの。付き合ってください」
夕日がオレンジから黒に焦がす影が、確かにその姿をかたどった。
くしゃくしゃの真っ黒な髪、比較的高い背、細いシルエット。
息遣いまでもが彼のものだとわかる程に、私は、私は。
思わず何も考えられなくなって大きく走り出した足音に、振り返る気配がした。
きっと気づかれてしまった。ごめんなさい。
こみ上げてくる涙を認められないまま、目を見開いて乾いた空気を切って走った。
誰もいない廊下が、構ってほしい私にとって辛くてたまらなかった。
誰か、心の優しい人が通りかかってくれれば、少しでも慰められるかもしれないのに。
静かな校舎の中で、私は必死に現実から逃げるように走った。

三年間、くるくると変わる環境の中、期待をして入学した割には中学校生活は青春ではなかった。
誰も好きな人の話をしない。恋バナもたまーに。バレンタインはチョコ交換会。
だから、だから全然告白なんてする人がいると思わなかった。
私が密かに想いを寄せていたことを気づけたあの人に、最後だから、伝えて卒業しようと思った。
最後のバレンタインだけは、本命を渡してみようって、勇気を出したんだった。
でも、結局は。
きっと、だめだ。先を越されてしまったのだもの。
学年全体として色恋沙汰のない私たちの中で、誰かの告白を断る人がいるなんて思えなかった。
嘘みたいにとりあえずでも好きって言い合って青春してみたいなーとか思っているんじゃないかって。
自分自身が断られるということに不安を感じていなかったわけではない。
しかし、何故だか、居場所を奪われた気分になった。
きっと、あの人とは私が一番仲が良かったのに。
きっと、私が一番あの人を愛せるのに。
みんなそう思っているのかもしれない。あの子だって。
でも、自分の中では自分が一番だった。
翌日、当人に会うのが怖くてたまらなくて、仮病で学校を休んだ。
受験は終わっていたし、もう学校なんてどうでもいいような気分になってしまっていた。
部屋の中で頭が痛いフリをして、天井をずーっと見つめていると、ふいに携帯が鳴って私は飛び上がった。
もう、夕方なんだ。
あまりにも速い時間の流れに驚きながら携帯の画面を見ると、そこには「木下 晴史」の文字があった。
……ど、どうしよう。
鼓動が速まる。その人は、確かに私が昨日見てしまったあの人なのだ。
しかし、出ないわけにもいかない。普通に心配してくれてるのかもしれない。
「……もしもし」
あんまり元気に出ると仮病がばれちゃうかもしれないっていう余計な考えが浮かんで、ちょっと小さな声でそう言った。
本当は色々なことに自信がなかっただけかもしれない。
「もしもし。元気? 大丈夫?」
あんまりにも普通に心配そうに聞いてくるものだから、私はついつい「ごめん、仮病なの」と言ってしまった。
彼は穏やかに笑って、それなら良かった、と言ってくれた。
少しの間を置いて、向こうから聞こえてくる。
「昨日、さ。放課後、俺のこと探してたんだよね」
急に昨日の話をされるから、私はもう本当に心臓が飛び出るかと思った。
それがなるべく悟られないように、落ち着いて肯定すると、晴史君もひとつ息を吐いたようだった。
「あの、俺が名倉に告られてるの見たの、有紀だよね」
いきなり核心を突かれて、言葉と息が詰まる。
渡そうと思って、探してたことは、彼の友人から伝わったのだろう。
そして、あまりに大きく足音を立てたものだから、振り返って、背中を見ている。
長い付き合いだ。私が彼を影で認識できるのだから、彼が私を背中で認識できないはずがなかった。
「……うん」
嘘はつけまい。ただ小さく肯定することが私の義務のように思えてしまった。
頭の中で彼に今すぐにでも聞きたい疑問が回り出す。勿論聞く勇気なんて引き出しを開けても開けてもどこにもない。
「有紀、何で逃げたの」
答えにくいようなことを聞いてくる。
晴史君が好きだから、とは言えるわけない。それなら、ショックだったから? これは告白しているも同然ではないか。
「えっと……何というか、見てはいけないものを見てしまった感じだったから……」
とりあえずそう言い繕った。間違ってはいないような気がする。普通はこういうことを言うのではないだろうか。
小さく笑う声が聞こえて、すぐに帰ってくる。
「はは……そっか。じゃあ、何で俺、探してたの?」
これは、本当に言えないことだ。
完璧に嘘をつかないといけない。
しかし、もう色々なことを考えてしまって疲れきった脳からはひとつの矛盾もない嘘なんて出てこなかった。
口を開いたまま、何も言えずにいた。
「言えないことなら、いいんだけど」
そんなはずがあるものか。本人に言えない用で人を探すことが有り得るものか。
今ここで告白してしまえば、心配してくれている彼の心につけこめるかもしれない、みたいな狡猾な考えまで浮かんで、嫌になった。
「あの、ね」
大きく息を吸って、しかし行き場を失くしてそのまま吐く。
電話越しとは、すぐに逃げられるからこそ、そのまま流してしまいたくなる。
だから、勇気の出ない私は、彼が待ちくたびれるまで何も言えなかった。
「大事な用だった?」
違うの、と言うと、ため息のような音が聞こえたから、私は慌てて返した。
「ごめんね、もう、なんでもないから」
本当のことかもしれない。だってもう意味がないんだもの。
バレンタインの魔法は2月14日限りだ。
私の本命のチョコレートは行き場を失くした今も部屋の隅っこで崇高な扱いを受けているけれど。
「……本当に?」
優しい響きを含んだ彼の言葉は、私の涙腺をとことん責めてきた。
もう、いいんだよ。もう、あの子と幸せになればいいの。
泣きそうになってしまったから、そのまま電話を切ろうとしたとき、下の階からお母さんの声がした。
「有紀ー! ちょっと降りて来られる?」
ちょっとごめん、そう言って返事も聞かずに携帯を持ったまま下に降りた。
何やら良いことがあったような言い方だったから、特に何の迷いもなしに。
玄関にいたお母さんの向こう側には、今まさに電話をしていた晴史君がいたのに。
「元気?」
今まで電話をしていたことなんて嘘かのように、もう一度そう聞いた。
私は頷いて、でもなんだか口の中はぽかーんと開いたまんまだった。
お母さんのいらないご厚意で無理やり部屋に押し込められた私と晴史君は、ちょっとだけ気まずい空気の中、長い間静かに座っていた。
「何、泣きそうな顔してんの」
ばか。鈍感。
私が悩んでることは電話越しにでも読み取ったくせに。どうして私が君のことで悩んでるって気づけないのかな。
彼は首を傾げて優しく苦笑した。
泣きたかった。泣きそうだったけれど、泣けるわけなかった。
うつむいている私を見て、思い出したように彼は声を漏らした。
「名倉と、別に付き合わないからな」
そういう風に、実質上私の気持ちをかばうようなことを言っても、全然声色は気づいてる風じゃなかった。
他の理由で私が元気をなくしているから、元気づけようとしてくれているだけ。
そんな感じで、本当に何気なくそう言った。
嬉しい言葉だったけれど、破綻してしまった。私の中で、可能性という言葉はもう消えかけていた。
「そっか」
それしか言えない。普通そうだ。
急に笑い出した晴史君は、あの崇められているようなチョコの箱を見つけて、指差した。
「失恋でもした?」
君が言うか。それを、君が言ってしまうか。
何も考えられないから、私はむしろ笑って言った。
「うん。だから、あげるよ、あれ」
結局彼の手元に届くなら、もうそれでいいかもしれない。
作り笑いに気がついたかどうかも確認しないまま、私は無理やり箱を押し付けて半ば強制的に晴史君を家から追い出した。
だってもう泣いてしまいそうだったから。
涙が出てくる前に目を閉じて、私は枕に顔をうずめた。
これでお終い。もう何もなかった。
何も変わらなかった。いつもと同じ。
そういう風に言い聞かせて、静かなまどろみに身を任せた。


二日続けて仮病で休むのは、もうさすがに気が引けるので、私は元気なふりをして学校へ行った。
別に大丈夫だ。多分。
絶対に晴史君を見かけてしまう。会ってしまう。話してしまう。
だって、私とは仲良しだもの。
でも、もう終わったことだし、何も関係ない。
そう思ってうつむきがちに歩いていたら、悩みの原因と運悪く出くわしてしまった。
人の少ない早い時間。私はいつもよりずっと早い。彼はいつもと同じなんだろう。
「おはよ」
軽く微笑んでそう言った。
こんなに仲が良いんだよ。どうして、もう、どうして。
そんなことばっかり浮かんで、ついつい返事さえ忘れてしまった。
「大丈夫か? 本当に今日は元気ないんじゃないか?」
そう半分からかうように言われた。でも半分は本当に心配してくれた。
どこまで優しいんだろう。この善良な私の大好きな人。
「あはは、大丈夫だよ」
笑える。作り笑いじゃない。
本当にこの人と一緒にいることは幸せだもの。
別に今は泣きたい気分じゃない。暗くなっているだけだから。
確かめるように私の笑顔を見た彼は、頷いて、少し真剣な顔をした。
「あのさ……昨日の、チョコ」
どきっとした。
何か、まずいことでもあったのかと思った。
でも、真剣ながら半分苦笑が混じっている彼の横顔を見て、おかしいな、と思った。
言葉を探すようにきょろきょろしながら頭を掻いた彼は、柄にもなく、照れているのだと気づいた。
「こんなの、入ってたんだけどさ」
そう言いながら小さな紙を私に見せた。
私は思わず声を上げかけて、まず次に彼からそれをぶんどった。
「ど、どーして……」
入れようと思って、やめたはずだったのに。
夢見心地で書いたラブレター。初めて書いたラブレター。
しっかりと自分の名前と彼の名前の入った小さな手紙。
真っ赤な顔で気まずそうな彼と、こちらも真っ赤な顔でへこむ私。
「ネタとか、だったりする?」
そう聞いてきたから、首を全力で横に振った。
否定するのは簡単だ。しかし、それは肯定の意味になる。
それに気づいたときには私はもう首を三十回は振ったところだった。
「……嬉し、かったんだけどさ」
聞いたこともないような少し上ずった声で、はにかみながら彼は少しずつ口にした。
私は驚いて何も言えないで、口も閉じることができなかった。
「俺が、有紀を悩ませてたのかって思うと、なんか昨日はすごい申し訳なかったなって」
俺が、という言葉が恥ずかしいかのように、そこだけ小さく早口でとばして、しっかりとそう言った。
「……私も、嬉しかったよ」
嫌で嫌で仕方なかったのは、もう伝えられないから、構ってほしくなんてなかったから。
泣いたらまた心配されてしまうのに、泣いてしまいそうだったから。
驚いた顔で頷き、笑った晴史君は、少し口をつぐんで前を向いた。
少しずつ歩を進める道は、いつもとは全く違って見える。
「あの内容が、全部本当かどうかわからないけど、」
途切れた息で途切れた言葉。
彼の心臓ももうばくばくなのかもしれない。私も気づけばそうだった。
「有紀がああ思ってくれてるなら、俺も、応えたい」
何と言えばいいのか、わからなかったのかもしれない。
私も、彼が何を言いたいのかわからなくて、ついつい首を傾げてしまった。
すると、彼は慌てて恥ずかしそうに訂正した。
「だから……有紀が、俺のこと、その、好きなら、俺も……好き、だよ」
いつもの通学路で、本当に天国に行ける一言を聞いた。
一生の思い出に残るであろう、嬉しい言葉。
私は、気がついたら泣いていた。
心配かけてしまう。でも、いいんだ。
だって、君のせいだから。君の言葉が嬉しすぎたから。
「晴史君……好き、だよ」
言えなかったはずの言葉は、期せずして伝わった。
奇跡とも言えるだろう。偶然? いや、運命だったのかもしれない。
しかし、よかった、という言葉さえも出てこないほどに、幸せだった。
赤い頬に寄せたマフラーが妙に冷たく感じて、身震いをした。
「俺、なんか、名倉に告られてるの有紀に見られたってわかって、その瞬間に、絶対付き合わないって思ったんだけど」
案外にさらさらと出てくる言葉に驚かされた。
それは、どういうことなのだろう。
「もしかしたら、さ。心の奥では期待してたのかもしれないな」
照れた彼の、困ったような、幸せそうな、なんとも言えないその表情が、暖かくて、大好きで。
二月の風は冷たかったが、もう春が訪れたかのように幸せな陽気に包まれた。
それは私が彼を想う気持ちと、彼が私を想ってくれる気持ちが作った太陽の光かもしれない。
ひとつ笑ってうなずいて、その後は静かに歩いた。
みんなに伝わってしまうのは、まだまだ先のこと。
それほどまでに、仲良くしていたから。
私の自信作のチョコへの褒め言葉も、すべて予想できるほどに大好きなんだ。
君の全てが。言動が、声が、表情が、優しい性格が。
私は幸せものだ。
不幸なバレンタインは、私に幸運をもたらしてくれたのかもしれない。
これからずっと続くであろう幸運を。


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