命のための愛

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「ほら、あっという間にきれいになった」
彼は女にそう笑いかけた。
私の目の前で彼は、最高の幸せといったような笑顔を彼女に見せる。
それでも、彼が私に触れるときはとても優しかったし、私はそれで満足だった。
「そうね。かわいらしいわ」
私よりずっとずっと大きくて、いつでも彼に意志が伝えられる彼女。
その差異さえなければ、彼は私を一番愛してくれていただろう。
私は、彼の手で生まれた訳ではないけれど、それは人に例えてみるなら当たり前のことだった。
もういつのことか忘れたが、私と彼は出会った。
特に何をするでもない。
彼も、一人で私と会話するほど切羽詰まった人間ではなかった。
しかし、彼はある日に彼女にこう言った。
「この子に名前をつけてあげよう」
彼女は眉を潜めた。
変な人とでも思ったのだろうか。
いくらでも思えばいい。
私は彼が何をしようと、その全てを認める。
不満があるなら早くに彼から離れてしまえばいいと、ただそう思った。
しかし、人間というものはそうはいかないのだった。
「えぇ、そうね」
白々しいほどに彼女は笑った。
実際、私からしてみれば白々しいことこの上なかったのだが。
ともかく、私は嬉しかった。
これは感覚の話だが、胸が踊るように鼓動した。
彼はこれを感じてくれていたかもしれない。
その瞬間に、目を細めて優しく笑っていたから。
私に、彼と彼女が呼ぶための名前がついた。
彼女にとってそれは、物を指す一般名詞とさして変わらないようだった。
認めたくはないのだろう。
しかし、彼はその日以来、私の名前を何度も何度もいとおしそうに呼んだ。
私はただただ嬉しかった。
彼女の額に猜疑心が刻まれていく様を、彼の目線と同じ、彼女より高い場所で眺めるのもまた楽しかった。
結局わかっていることではあるが、こうしてあからさまに差をつけると、とても気分がいい。
これまた感覚の話だが、私は鼻歌混じりに足を揺らしてルンルンとしていた。
彼も、楽しそうに笑った。
二人だけの世界というものは、本当にできるのだった。
ついに彼女の嫉妬心が燃え上がったが、賢い彼女は彼に危害を加えることはしなかった。
ただ、少しずつ……。
私の体を、もいでいった。
不思議なこともなにも起こらなかった。
体をもがれても、痛みは感じない。
一体、体のどこでこうして考え事をしているのかもわからないけれど、四肢がなくなっても思考は無事のようだった。
彼女は、汚ならしく泣いた。
これは感覚の話だったので、正しく言うと、悲しそうに泣いた。
嘘の悲しみの涙なんて、ヘドロの沈む海水よりずっと汚いと思った。
自分のやったことを適当な動物のせいにして、私を捨てようとした。
しかし、彼は私に代わりの腕と足を用意してくれた。
そして、彼女がさんざん、その毒々しい爪でかきむしった髪も、きれいにとかして結ってくれた。
彼女はここで、かわいらしいなどと言った。
心のなかでは小汚ない舌打ちをしているだろうと思うと、彼への気持ちがいっそう強くなった。
彼女は、悔しそうに私を見据えた。
これは感覚の話だが、私は思い切り侮蔑の眼差しを向けてやった。
当然だろう。
まあ、私は何も悪いことはしていない。
ある日、いつものように彼が私の頬を優しく撫でた後、髪に花を差してくれた。
「今日は、君の誕生日だ」
まだ彼とであって、一年しか経っていなかったという。
わからなかった。
人の使う時間の感覚なんて、これっぽっちもわからなかった。
とにかく、一年というのは長いようで短いらしい。
それだけの期間の彼しか知らないと思うと、これは感覚の話だが、胸がきゅんとした。
彼女を、なんとかして彼から離したい。

不思議なことが起きたらしい。
いつも感覚の話で進めていたので、本当にやったのかわからなかった。
私は、動くはずのない手足を器用に動かし、きれいに作られた顔を綻ばせた。
彼は不思議そうに目を丸くし、彼女は信じられないといったようにこちらを睨んでいた。
やがて、お腹がすくようになった。
わからなかった感覚だったけれど、確かにそう感じた。
彼にそれを告げると、彼は私を棚から下ろしてくれた。
地に立つことは、容易ではなかった。
ぶるぶる震える足を何度も何度も立たせようとする私を見て、彼は私を抱き上げてくれた。
「その足は元々君の持っていたものとは違うからね」
悲しそうに言ったから、私は笑顔で首を振った。
かつての四肢がなくなってなお、大切にしてくれる彼以上に優しい人間なんて存在しないと思った。
彼は私に甘い菓子を与えてくれた。
食べられるのか不安だったが、大丈夫だったようだ。
この間、彼女の顔は一度も見なかった。
1日のうちで見かけないことは多かったが、嫌な予感ばかりして身の毛がよだった。
「あの子は、勘違いしているさ。僕にとっては、二人とも、大事な大事な"娘"だというのに」
どういうことか問おうとしたが、彼はそっぽを向いてしまった。
私はともかくとして、れっきとした人間、それも彼と同年代に見える彼女が、彼の娘だと?
私の見聞きした情報の中には、彼女の存在を説明しきれるものはなかった。
私と同じ存在なはずは……。
その時、ふと、私が動けるようになったときの彼の言葉を思い出した。
『この子も、また……』
私の他に、動き出したものがいたのか?
それは――彼女なのか?
記憶を隅から隅まで洗い出す。
彼女は、私がここに来たときは……。
いた。
いたけれど。
彼と笑いあっていた?
いいや、彼女は虚ろに一方向を見つめていた。
彼女の美貌はどこか機械的だった。
しかし、今はどうして。
また、同じことが既に起きていたとでも言うのだろうか?
彼の周りでは、こんなことが二度も起こったと言うのだろうか?
何も言わない彼に抱かれて向かった先は、知らない部屋だった。
彼女が不自然に床に横たわっていた。
彼は私を机に座らせ、彼女に寄り添った。
「君は、もういいのかい? 僕は、君を愛することを忘れてはいない。あの日、君に名前をつけた日からずっと。……君は、僕を愛してはくれないのかい?」
彼は淡々とそう言った。
私は、彼に愛されたから動けるようになったのか?
彼女は、彼に愛されなくなったわけではない。
彼女が、諦めてしまったのだろうか。
同族と知った途端、悲しみがこみあげてきた。
彼が呼んだ彼女の名前を、彼の背後から必死に叫んだ。
小さな体からは小さな声しか出なかった。
彼女は、小さく呟いた。
少し愛されていればそれでいいと、あなたも気づく日が来る、と。
クレアは、彼の作る綺麗な衣装を纏うモデル第一号。
かつての姿に戻った。
私は、上手く動かない足を引きずって、彼女の側に寄り添った。
彼を見上げると、彼は笑っていた。
悲しそうに、笑っていた。
クレアは死んだ訳じゃない。
きっと、彼にもっと愛されたくて、奇跡を起こした。
私も、同じなんだ。
「君は、どうしたい?」
彼は小さく言った。
私も、彼に愛されたい。
彼女を知らないままに嫌ってしまった分、愛されたい。
それでも。
私の名前は、彼に呼ばれるためにある。
私の存在は、彼以外に認めてもらえなくてそれでいい。
呼ばれない名前には、決してなることはない。

「私は、あなたを愛するために、このままでいたい」

私は、死なない。
彼が一人にならないよう、彼女が一人にならないよう、最期まで名を呼ぼう。
この不完全な体でも、きっとできることはある。
彼は、私を抱き上げて、笑った。



小さな人影が過る。
大きなものを引きずって、かくかくと不自然に歩く。
動かないクレアを、彼の元へ連れていき、私も、共に。

「小さなお客さん。いや、君は、私が彼に作った人形じゃないか」
老人は私に笑った。
覚えている。
確かに彼は私の父だ。
私はそっと会釈をして、クレアのことを指差す。
老人は悲しそうに笑った。
「君も……かい?」
頷くと、老人も頷いた。
「残念だな。……君は、名前はもらったかい?」
私は、彼に呼ばれた愛しい名を、これが最後と決意して、老人に告げた。
老人は一瞬息を飲んで、そして笑った。
クレアを抱き上げ、私を抱き上げ、彼の元へと連れていってくれた。


「お前も、酷いやつよのぉ。この子達を、本当に"娘"だと思っていたのかい?」
二人のかわいらしい人形は、彼の傍らで幸せそうに笑った。
彼の伏せた睫毛は、何も語らない。
当たり前だ。
二人の名前は、彼の死んだ娘の名前だった。
小さな人形は、私が気の毒な彼に、娘の代わりにと作ったものだった。
大きな人形は、彼自身が自らの慰めに愛したのだろう。
彼女らは、彼の心の悲しみに、愛に触れ、こうして最期まで付き添った。
自分たちの意味を知らないままに。

クレアの言葉は、嘘だったのだろうか。
もっと愛されたいなどと、思っていたはずがない。
私も、そう感じていたが、間違いだった。
もっと彼を愛したかった。
彼女の言葉は、彼に対してだったのだろうか。
私にはわからない。
彼がたくさんの愛を捨ててしまったことも、知らない。
知らないんだ。
実の父から聞いたことは、嘘だと、信じたい。信じている。
私たちのために、彼が不幸になったようで、いたたまれないようで……。

「クレアお姉さん、お父様は幸せだったのかしら?」

「わからないわ。……私たちを愛することで、幸せになれたなら、いいのだけど」

愛らしい花を、自らを花として、二人は"父"に贈った。
あなたには、愛を。



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