星に願いを

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 何度も離れて、それでも心は引き離せないままで、ずっと過ごしてきた。胸を焼くこの想いはいくら変えようとしても変わってはくれず、あなたの姿を忘れることは到底不可能だった。
 せめて、幸せに。手の届かないところにいたあなたに、そんなことを願ったときもあった。
 しかし、きっと今なら、気持ちを伝えられる気がする。
 長い年月とあまりにも大きすぎる厚みを持った想いは、天の川のように、隔たりを生んでしまった。どうかそれが、二人にとって良いものに昇華しますように。
 私が本当に願ったのは――。


 すっかり夏めき、汗ばむ夜に顔をしかめる。梅雨はまだ明けておらず、夜空はすっきりした群青とはいえなかった。
 ……メール来たら、寝よう。すっかり習慣となった、その行動は、長く続けるほどに、楽しくも、徐々に苦しい自分の首枷になっていた。
 その理由は、言うまでもなかった。
 握りしめた携帯が震えて、メールの受信を告げた。私は反射的にボタンを連打してそれを開く。
 野村 菜々、十六歳。片想い五年目の相手は、部活の先輩です。
 他愛もないメールに、ここまで必死になれるのは、積み重ねてきた時間や想いと、それでも変わらぬ彼という人の素敵さ、だと思っている。
『今度どこか行きましょう』
 どうしても、一歩踏み出したくて、何度も何度も、柄にもなく、背伸びしてアプローチしてきた。けれど、どうしてもタイミングが悪いみたいで、二人がお互い忙しくない時間が見つからない。
 奇跡的な再会を果たしてから、もう十ヶ月。そこから色々あって、強くアタックし始めてから、三ヶ月。
 苦しくて、楽しかった。四年間ずっと好きだったけれど、彼から離れて、諦めていた時間があったから、また再び彼とふれ合うのはとてつもない至高だった。
 明日からテストで嫌だ、みたいな内容の、ごく普通な対話を、『そろそろ寝ます。おやすみなさい』と閉めた私は、そのまま携帯を握りしめて目を閉じた。


 四年前に、彼と私はとても仲良しだった。初めて話した時に、気が合うねって周りに言われてから、意識し始めて。
 真面目だけど、口を開けば話し上手、合唱部の男声を引っ張る努力家。おどけた冗談が得意で、みんなの人気者。
 人と関わることにどちらかといえば消極的な私が友好的になろうと思えたのは、彼ともっと話したかったからだった。
 合唱部という部活の性質上、学年関係なく、部員はみんな仲が良かった。彼は陽気な先輩たちの中で一番のいじられ者で、色々な場面で笑いを誘っていた。
 そんな中で私は、ごく自然に、いつでも楽しく対話のできる彼に好意を抱いた。
 先輩後輩という関係でもいい、彼とたくさん笑い合いたい。それだけだったけれど、そんなのは長く続くわけがなかった。
 細かい話は知る由もなかったし、聞く勇気もなかったから、私は知らないことだけど、彼には彼女ができたのだった。
 お似合い、とか、なんとか。私だって、兄妹みたいだって言われたことあるもん。そんな嫉妬と虚無感と、彼女さんへの気後れによって、私は彼と話すことが少なくなってしまった。
 そんな微妙な状態は、無惨にも長く続いてしまい、彼にとっての中学三年間はすぐに終わって、卒業した彼と会うことはなくなった。
 しかし、去年の夏、私の高校の文化祭に彼が来ていたのに偶然出会い、それがきっかけでずっとメールをしている。
 彼女とは別れたらしかった。何年も前のことだったから、当たり前かもしれない。
 チャンスだと思った、なんて言ったら聞こえが悪いけど、本当にその通りで。何年もズルズルと引きずっている私にとって、これ以上立ち止まっていることには一掴みの意味もなかったから。
 湿度の高いぬるい風が、窓から入ってくる。それでも薄着の身体を震えさせるには十分だった。
 寝返りを打って、閉じたって眠れない瞼を開く。
 テストの憂鬱さと、会おうとして会えないもどかしさと、色々な不安要素が私をも不安定にしていた。


「今年の七夕はすっきりと晴れた夜空を見ることができそうです」
 暑くなってきた初夏独特の、なんとも言えない密度の高い朝、ぼーっと眺めたテレビが言ったことに、ふと思い出す。
 七夕かぁ……。
 小学生くらいのときは、学校で短冊に願い事書いたりしたっけ。何故か、とても簡単なのに、とても重要な願い事を書いていた。
 織姫と彦星がどうのって物語も、たいして知ってるわけでもないのに、七夕に願い事をするのは、かなり身近なイベントだ。
 恋の願い事……なんてしても、意味ないよね。
 少しずつゆっくり咀嚼していた食パンを全部口に放り込んで、私は行ってきますを告げて家を出た。
 昨晩とは一転、雲の浮かぶ清々しい青空だった。震えたポケットの携帯に、思わず一人でに顔が綻ぶ。
『おはよう。テストがんばってな』
 たぶんこれ以上、テスト中はメールできない。彼が気を遣ってくれるから、私も送らないようにする。
 でも、その区切りになるこんなメールで、私は四日間頑張ろうと思えてしまう。――重症かなぁ。 


 それから四日は、たいして多くのことは考えずにテストに打ち込んだ。
 考え始めたら、いつまででも悩んで悩んで、勉強なんて手につかないに決まってるから。
 必死に勉強に追われていたせいで、こうやってテストが終わっても、解放感があまりなくって、まだテストが続いているような錯覚すら覚える。
 学校を出るとき、駐輪場に生えた笹をとっている生徒を見て、そっか、七夕だ、と数日前にもしたように思い出す。
 確かに天気予報は当たって、今日は昨日までの曇天を洗い流した、真っ青な空だ。夜には星空が見えるだろう。都会だから、天の川はちょっと無理かも。
 テストが明けて嬉しそうに友達と帰る、という光景があちらこちらにたくさん見える。中には、恋人同士も。
 そんなことを意識し始めちゃったから、もう私のあの感情はすっかり首をもたげている。
 テストが終わって、落ち着いたこととか、報告したいな。彼も忙しそうだけど、もしかしたら、会えるかも、なんて。
 あれこれ考えるうちに、学校から駅、そして最寄り駅の駅前まで来ていた。
 ……あれ、七夕飾りなんて、あったんだ。
 地味な緑色の立派な笹に、色とりどりの短冊や、星の飾り。大きな駅なんかじゃ見かけたことはあったけど、最寄り駅で置いていたなんて、今まで気づかなかった。
 家族連れの子供なんかが、お父さんにだっこしてもらって笹に短冊を結びつけていた。見れば、自由に書いて結べるように紙やペンが用意されていた。
 気まぐれ、ともちょっと違ったかもしれない。子供の頃の七夕なんか思い出しちゃったし。わざわざ考えてするような行動でもない。
 ふと心に浮かんだ願い事を書いて、笹に結びつけたのを自分で見直してから、何やってんだろ、と自嘲する。
 休日の、多い通行人の中で目立ちやしないけど、少しだけ恥ずかしくなる。願い事の内容も、子供みたいだし。
 表情は何事もなかったかのように、でも内心顔を覆いたいくらいの羞恥を感じながら、私はすたすたとその場を去った。
 後悔してもしょうがないのでほとんどこれということは考えずに家路を急ぎ始めたとき、ポケットの携帯が震えた。
 それに気づいて、程なくして、メールじゃないバイブの振動に、思わず焦る。あまり電話は得意じゃなくて、友達ともしないから、緊張しちゃう。
 ぷるぷる震える手で携帯を開いて、さらに私は卒倒したくなった。
『神田 卓斗』
 彼、だった。番号は交換してあったけど、初めての電話。
 もはやぷるぷるを超えてガタガタと震える指で、なんとか通話ボタンを押す。
「もしもしっ」
 恐る恐る耳に当てて、返答を待つ。押しちゃった物はもう戻れないから、少しだけ肝が据わってきたし、私は通行の邪魔にならないように脇に寄った。
『もしもし。……急にごめんね』
「あっ……いえ」
 張りのある素敵な声。私の大好きな歌を歌う彼の声。
 耳が半分塞がっているから、鼓動の音が大きく聞こえる。推定心拍数、百十。
『菜々ちゃん、今帰ってるとこ?』
 彼が何の目的で電話してきたのか、わからない。声色を冷静に聞き取る余裕なんかも私にはない。
「えっと、はい」
 両手で包み込んだ携帯を、ぎゅっと握る。緊張もするし、なんだか、怖くて。
 ゴソゴソという音以外に、何も返ってこなくて、かなり不安になる。別に私が何かしたというわけではないのだけれど。
『ちょっとストップな』
 不安を抱きながらノイズを聞いていたら急にそんな風に言うから、私は何がストップなのかもわからないし、この電話の意図もわからないし、もはや混乱してきた。
 ドキドキも相まって、ただ単に電話がかかってきただけなのに泣きそう。お願いだから、用件があるなら早く言って。
「……菜々ちゃん」
 はい、と返そうとしたところで、違和感に気がついて。私は電話を耳に当てたまま、振り返った。
 額や首に汗をかいて、いかにも暑そうに息を吐く姿。ぽかんとした私と目が合うと、彼――神田 卓斗(かんだ たくと)先輩はちょっと笑った。
 状況把握がゼロの状態から、今までを顧みて、だんだんとわかってくる。走って……追いかけてきたの?
「さっき、駅で見かけたから……追いかけてきてみた。あっちー」
 彼が息を整えながら、腕で汗を拭い、右手に握っていた携帯の終話ボタンを押すところを見て、やっと私も開いたと携帯を閉じた。
「えと、あの、えっと」
 混乱はもうしていないはずなのに、どうしようという気持ちが強くて、うまく言葉が出てこない。そんな私を見て、彼はにっこり笑った。


 なんとなく忙しい時期がずっと続くとき特有の、なんとも言えない憂いを感じながら、いつものように駅に入る。いつもの休日どおり、駅は人ごみで溢れていて、顔をしかめる。
 数週前から置かれている、妙に目立つが浮いている七夕飾りを視界の端に捉えて、嘲笑気味に笑った。七夕、なんてなぁ。
 そのまま通り過ぎようとしたとき、その笹の下に見慣れた背中を見つけて、思わず立ち止まる。
 彼女は、短冊を笹に結び付けて、そのまま出口の方へ歩いて行った。
 どうしてかそのとき、何よりも好奇心が勝った。忘れたように笹の近くまで行って、先ほど彼女が結びつけた短冊を見やる。
 その言葉を見たとき――本能的に、身体が動いていた。
 彼女を、引き止めたい。引き止めなくちゃ、いけない。今、ここで。
 人ごみにもまれて、ここにたどり着くまでにそれなりにかかってしまったから、彼女とはもう大分離れてしまっただろう。
 彼女の住所を思い出しながら、どちらの出口に行ったか考えて、焦る気持ちの中で通話ボタンを押した。


「なにはともあれ。テスト、お疲れ様。どうだった?」
 中学時代に、よく部活のみんなで溜まっていた公園のブランコに、二人で座った。
 たじたじになっていた私をここまで引きずってきた先輩は、それでもぼーっとしている私に苦笑した。
「あ、うーん……。そこそこ、でした」
 実を言うと、毎回彼のことが気になって仕方がなくてテストなんて身が入らないのだけど、今回ばかりは完全に割り切っていたから、いつもよりは勉強できた気がしていたりした。
「そかそか。それはよかったー」
「先輩こそ、忙しくないんですか?」
 私はテストが終わったから、こうしてただ話すだけに時間を使うのにももう何のためらいもないけれど、彼は、忙しいと言っていたから。
 聞くと、首を一つ傾げて苦笑いした。
「まあまあ忙しい。けどまぁ、今日は別に行かなくてもいいやつだったから」
 私は忙しい時、割と彼相手でもメールを無視しちゃったりするのに、彼は私と会ってくれたり、メールに返信してくれたりする。それに関しては、すごく申し訳ないと思っているけれど、忙しいのを隠したりされちゃうから、その気遣いには感服だった。
「あんまり無理しないでくださいよ? ……えっと、それで、何か話でもあったんですか」
 気持ちも落ち着いてきて、手持ち無沙汰に任せてブランコを軽く漕ぎながら、彼を覗き見る。
「んー、あー、別に特になかったんだけどね」
 けど、――?
 その先を予期させるような言い方に、疑問を抱く。何か、特別言うほどでもないにしても、話があったんじゃないのか。
 俯いた彼の横顔を見たまま、ブランコを軋ませる。初夏の強い日差しは、大きなけやきの木に遮られてここまで届かないまでも、汗をにじませる。
「……やっぱ、話ある」
 そうぼそっと呟いた神田先輩は、ゆっくりこちらを見た。
 思わず、ドキッとした。大好きな人の真剣な顔は、威力が高すぎる。いつもの笑顔と違って、口端が少し下がるだけで、こんなにも。
「俺さ、前言ったけど、菜々ちゃんがメールしてくれんのすげぇ嬉しいんだけど、菜々ちゃんは、俺とメールしてて楽しいか?」
 自虐的な言葉じゃなくて、単純な疑問。そんな彼の問い方と表情に、私は一瞬戸惑った。
 答えは一つ、なのに、なんだか嫌な予感がして。
「勿論、楽しくないわけないです!」
 素直に、本当の気持ちを伝えたいと思うのに、それはお世辞みたいになってしまう。自分の言葉の響きの悪さに、私は顔をしかめた。
 そっか、と呟いて。同じようにブランコを、キィキィと軋ませる。
 その横顔を、私はしばらく見ていた。
「例えば、さ」
 ぽつり、と。
「俺が大学生になって、菜々ちゃんも大学生になって、もし都外の学校に行くことになったりしたら――もう会うことはなくなるのかな」
 鼓動が一つ、強く打たれる。そして、胸のあたりがギュッと掴まれたように痛い。
 なんで、なんで今――。よりにもよって今、そんなことを言うの?
 意識せずすすった鼻で、自分が涙を流していることに気がついた。神田先輩はまだ下を向いているけど、私は万が一にも彼に見られないように、下を向いた。
「っそんなこと……ゼッタイ、ない、ですッ」
 それはもはや涙声なんかじゃなくて。規則的にやってくる嗚咽に逆らえず、言葉を言いきるので精一杯だった。
 しゃっくりみたいに勢いよく息を吸おうとする自分を抑えて、必死に呼吸をする。けれど、沈黙の中では、私の不自然な息遣いが目立ってしまう。
 ポタポタと膝に落ちる涙を、拭おうと手をあげたとき。
 重い鎖の、ジャラジャラとぶつかり合う音。
 反射で私は、彼の方を見上げて。立ち上がった彼と、ばっちり目が合う。
 そんな顔しないでって、今の私でも言わなくちゃいけないくらい、悲壮に満ちた表情を浮かべていた。
 でも、私はなんとなく思った。私もたぶん、同じような顔してる。
「わ、たし」
 ここで、言ってしまっていいのだろうか。こっそり思っていた願いを。言わないと、先輩が遠くに行ってしまう気もしていたけど。
 ためらっているうちに、彼がしゃがんで、私のちょっと下に頭がやってくる。彼は、悲しそうな表情で、――笑っていた。
「ごめんな」
 そう言うと、鎖を握っていた私の右手をほどかせて、そっと握った。
 驚き、悲しみ、焦り。全てが私の鼓動を速くしているのに、彼はもっとアクセルを踏んできた。
 数秒間、見つめ合った後、彼が動いた。
 手が、強く引かれたのには気がついた。でもそれ以外は、わからなくて。
 頬に、額に、肩に、温かいものを感じた。タニンのニオイと、少しの汗のニオイ。
 抱き締められているとわかったときには、頭は真っ白だった。
「今まで、何度も試すようなことして、俺は引っ込んでばっかで、ズルいことした。でも、今日わかったから――」
 何が、とか、何を、とか。そんなのしか浮かばない。だって、わからなくて。
「さっきのは、あながちあり得ない話じゃないけど……俺だって、あんなのイヤだ」
 もしかして、とか、思っていいのかな。私と同じ気持ちって、つまり――。
 顔の前に位置する彼の肺が、大きく息を吸い込んだ。そのときに気がついたのは、彼の鼓動が、こうしていても聞こえるくらいうるさいこと。
「俺、――俺も、菜々ちゃんが好きだ」
 衝撃、だけど、すごく嬉しい衝撃。でも、って。もしかして、私の気持ちは気づかれていたの?
「あの、私……」
 彼の胸から解放されて、顔を合わせると、彼はふつうににっこりと笑っていた。ほんの少し、頬を染めて。
「ごめんな。気づいてた……いや、知ってた。知らなくても、わかりやすかったから、少なからず期待はしてたけど」
 その言いぐさからじゃ、何年も何年も好きだったことは、気づかれていないようで。ちょっとだけ安心した、けど。
「私ッ」
 立っている彼に合わせて、勢いよく立ち上がる。無造作に放られたブランコが、音を立てた。
「初めて会った年から、ずっと好きだったんです……。彼女がいても、会えなくても」
 自慢じゃない、けど。どうせなら、知って欲しかった。期待、なんてしてくれていたなら。
「俺は……。ごめん。後輩としてなら、ずっと好きだったけど、全然気づかなかったし。――でも、ありがとう。すっげぇ嬉しい」
 私は、彼のやわらかい笑顔を見て、やっと笑えた。
「離れちゃうこととかあったとしても……絶対、また会えるから。――違う、会おう。長いスパンで見たら、いつまででも、離れないでいよう」
 念を押すように、私の手を握りしめた彼は、何度もそんなことを言った。
 私はただ、嬉しくて、はい、と答えることしかできない。
 私を泣かせたのは、先輩だけど、その分たくさんこうやってお返しをしてくれるのは、いつもと変わらない優しさだった。
「菜々ちゃん、」
 顔を上げると、眩しい空を背景に、先輩の笑顔。
「ありがとう」
 何に対しての感謝の言葉だったか、わからなかった。でも私も、今までの思いを込めて、同じように言った。
 隔たりなんて、元からなかったのかもしれない。長い時間や積み重ねた想いが、悪い方向に繋がるなんて考えが、そもそも。
 でも、伝えたかった気持ちが伝わったのに、まだ少しだけ物足りないのは。私が書いた、願い事のせいかもしれない。
 子供みたいに、『ずっと一緒にいられますように』、なんて願い事。
 


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