冬煙

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 両親が死んだのは、正確にはいつだったか。今の家に来たのが私が小学二年生の頃だったことは覚えている。突然の事故で、両親はいつの間にか私の元には帰って来ない人となった。そして私の帰る家も、なくなった。
 紛い物のノスタルジアを感じさせる灰色のコンクリート塀の角を何度か曲がって、庭先にサクラの木のある大きな家。門を開けると、煙の微かなにおいがした。ふと右手を見れば、白煙が空にのぼっている。また、近所の畑で何かを燃しているのだろう。
「……ただいま」
 最近、この言葉を言うのが億劫になってきた。それは別に、反抗期ではないだろう。私がこの家に帰ってきて、それを言う資格があるのか、甚だ不安なのだ。
「お帰りなさい、唯子ちゃん」
 優しく老いた顔で出迎える伯母さんは、いつまでも私を優しく扱う。言うなれば、自分の娘の友達のように。
 私は一瞬彼女と目を合わせてから、温かすぎる微笑みにどきりとして目を逸らした。靴下で踏みしめる板間がぎしりと軋む。
 私の部屋の中には、この家に居ることを忘れさせてくれる物がたくさんある。まず第一に、アップライトピアノ。元々家の隅で埃をかぶっていたものを、伯母さんが私に気を利かせて持ってきてくれたものだった。第二に、大量の年月を吸い込んだ古い本の山。書斎というよりは本の物置だったこの部屋に置かれている物を、私が勝手に読み漁っているのだ。第三に、――これは特筆するようなものでもないかもしれない――両親と幼い私の写真。こんなものを見ただけで全てを思い出せるほど、私は当時大きくなかったが、しかしそれでも常に何かを感じる。私の失った一番大きな物を、いつまでも忘れないでいさせてくれる。
 午後四時過ぎ。部活に入っていない私にとって、いつも通りの時間だ。部活はお金がかかるから、――伯母は入ればいいと言ったし、伯母夫婦は裕福な方だが――中学生の頃から遠慮を建前に遠ざけてきた。本当は打ち込むこともない自分が怖かった。それまで習っていたピアノは中学進学と共に辞めた。お金を出してもらってまで私はピアノを習いたいとは思わなかった。けれど、部屋にあるアップライトピアノをしばしば弾く。居辛さの中で、音を奏でることは私を解き放ってくれた。皮肉なことに、そうやって居辛さから解き放たれることが、唯一打ち込めることなのかもしれない。
 ブレザーのポケットに手を突っ込んで、イヤホンの先をつまみ上げてそれをずるずると引き出す。唯一私がしたおねだりだったかもしれない。以前家に来ていたいとこに触発されて、音楽プレイヤーが欲しい、と伯母に伝えた時のことは、あまり思い出したくない。彼女は笑っていたかもしれないが、その裏に何を考えていたかはわからない。ただ、後悔はしていない。何故なら、思っていた以上に暇つぶしになるから。それに、家にある古いCDを聴き親しむことを伯父は喜んだ。おかげで私の音楽の趣味はクラシック、ジャズに加え、六十年代の音楽、というものになった。とんでもないとはたまに思うけれど、私は満足していた。
 適当に曲を流して、イヤホンをつける。もう幾度となく聴いた音色が、頭の中を満たした。


 そして見た夢は、私の古い記憶かもしれない。


 愛おしそうに名前を呼ばれる私は、確かに普通の家庭の一人っ子だった。父も母も優しかったが、今の家よりは全然裕福でもなかった。休日の昼下がり、大層なオーディオセットに、窓からの陽が差していた。
 父と、母と、流れる音楽と、四人の時間。何故だかそう感じた。きっと、私はそう思っていたんだ。
 何かが特別というわけではないかもしれない。しかし、私にとっては十分に特別だったのだろう。こんな時に、夢に見るほどに。
 その幸せな空間の中で響いていた音は――。

 ガラガラ、と引き戸の音は、確実にこの家人のものではなかった。慇懃な彼らは、そして私は、もっとそっと引く。宅配便でも来たのか、と私は枕に埋めた顔を上げて、窓に寄った。
 この部屋の窓からは玄関先が見える。申し訳程度のカーテンを引いて見たら、そこに立っていたのは制服姿のひょろっとした男の子だった。しかも、私と同じ学校の制服。
 ぺこぺこと頭を下げながら、戸に手をかけた彼は、ふ、と視線を上げた。目が合った。気まずいとも思わないほどの距離だから、私は彼の顔をまじまじと見つめた。知らない顔だ。少なくとも認識していない。
 しかし、彼の唇の動きに、どきりとした。彼は何とも形容しがたい表情で、確かにこう動かした。かさはらさん、と。
 すぐにカーテンを閉めた。その行為一通りは、ストーカーが玄関先に来ていることを見つけてしまった女性のようだったかもしれないが、私が彼女と共有していたのは一つだけ。
 咽ぶほどの、胸の高鳴りだ。



 それから私は警戒していた。特別に仲のいい友達もいない私は、世間話などのために声をかけられることがほとんどない。あの日、私の苗字を口にした男の子が、いつ私の前に現れるともわからない。あの事件に災いと名前をつけるほどの確証はないのに、何故だか怖かった。
 帰り道、周りを気にしてみたり、あの日のように窓から玄関先を見下ろしてみたりするけれど、彼の気配はない。
 私の名前を知っているというだけで、なんということもないだろう。同級生だったら――たぶん、私が知らないのだから違うのだろうけど――驚くべきことではない。
 真面目そうで、笑みを浮かべながら丁寧にお辞儀をする姿が記憶に残る。折に触れて伯父に聞いてみたら、知り合いだという。
「唯子ちゃん、時雅(ときまさ)君のこと知らないのか」
 やはり、学年は一つ上だった。近所に住んでいて彼の父親が伯父と仲が良いらしい。この家に住み始めてもう何年も経つが、初めて知った。
「知らなかったです」
 素直に述べた言葉に、伯父も伯母も何故だか少しぎこちない表情を浮かべていた。
 時雅、君? さん?
 私が知らないのに、私を知る彼が気になっていた。彼の存在を警戒していたはずの私は、いつの間にか、なんだか期待して待っているみたいになっていた。



 そしてその来訪は、あまりにも突然で、非現実的だった。
 私はピアノを弾いていた。弾くといっても、曲としては成ってない、ちぐはぐなフレーズの連続を気ままになぞるだけ。長い間、楽譜を見る演奏から離れているおかげで、聴き親しんだ音を拾うことは容易かった。私がこのようにピアノを思うがままに弾くのは、家に誰も居ないときだけ。
 最初、驚愕と恐怖で指が鍵盤の上で止まった。こんな風に誰かに遮られたのは、久しぶりだ。
「すっげぇ」
 私の視線をくぐり抜けて、彼は私の止まった指を見ていた。漏らした感嘆なんか、気にする余裕はない。
 視界の端に映ったのだ。見慣れた背景のはずの部屋の入り口に、誰かが立っているのが。
「……あ、初めまして。知ってるかもしんないけど、篠島 時雅(しのしま ときまさ)っていいます」
 やっと合った目線。彼の瞳の色は、薄暗い中でも希望を湛えた明るい茶色で、どきりとした。
 発する言葉も見つからないまま、私は両手を膝の上に戻した。静寂が、痛い。
「笠原さん。笠原 唯子(かさはら ゆいこ)さん」
 嬉しそうに、彼は少し掠れた声で私の名前を二度繰り返した。
 この異様な状況。私の心臓は凍り付きそうだったけれど、何故だか少し穏やかな気持ちだった。
「あ、の」
「座ってい?」
「……どうぞ」
 何か言おうと口を開いた私を、入り口近くに置いてある椅子を引いて遮った。図々しいなあとは思うけれど、それどころではない。
「笠原さん、さっきの、弾いてよ」
 私は既に弾く気なんて見せていないのに、彼は期待の瞳で私を見る。
「あの、なんで……」
 ここにいるのか。私の名前を知っているのか。先ほどの曲を当たり前のように聴いていたのか。
「――知ってた」
 彼は、意味ありげに笑む。妖しいともいえるその笑顔に、私は背筋が凍る思いがした。
「樋口さん家に、カゴの中の鳥みたいな女の子がいるって。その子は、樋口さん達が居ないときだけピアノを弾く。笠原 唯子さん」
 カゴの中の鳥。私のどこを見てそんな風に思うのか、なんて、聞くまでもないほどのことだった。家から出ないのは、出られないのは、事実だ。
「びっくりしてる? ……ごめんね、勝手に入ってきて。でも、俺、この家には何度も出入りしてるんだけど」
「そう……なんですか?」
 今まで自分のことを知らなかった私を苦く笑うように、彼は肩を竦めた。確かに、一人の時間はほとんど部屋から出ないし、一階にも下りないから、当たり前かもしれない。けれど、こないだのように引き戸の音一つを不審に思うこともできたのだ。
「樋口さんと日本文学を親しむ仲間なの。本借りによく来てるよ」
 本、と言えば、背後に積まれた古びたにおいの紙の山を連想する。振り返って眺めたそれらを、彼もまた眺め回した。
「この部屋にある本、読んでみたいと思ってたんだけど、だめって言われちゃってさ」
「あっ」
 でも、だけど。私は思わず彼の視線を呼び寄せた。
「私のせいなら、今度からは、全然、その……」
 ふふふ、と笑う。緊張でどきどきしている心臓が熱くなった。
「ありがと。もしかして、本も好き?」
「えっと、はい」
 私が本を読むのは暇つぶしだ。彼は伯父さんに影響されて読む。
「し、篠島さんは」
「え、あ、時雅でいいよ、何?」
 少し照れくさそうにはにかんで、しかし彼はすっかりご機嫌なようで、なんだかルンルンしている。
 先ほど会ったばかりの異性を下の名前で呼ぶというのか、些か抵抗があったけれど、彼は『いいよ』というより『呼んで』というニュアンスで言ったから、私は口をつぐんで腹を決した。
「時雅さんも、好きなんですか。伯父さん――樋口さんの、好きなやつ」
 言われ放題は癪にも障るし、気持ち悪い。こうなってしまえば、どんな風の言動をしようと関係ない。
「うん、CDも借りてるし」
 やっぱり、だった。伯父さんと時雅さんにどれだけの交友があるかは知らないけれど、伯父さんは得てしてそういう人だ。自分の趣味に少しでも興味を持つ人にはぐいぐいいく。
「私……」
「笠原さん、ピアノ弾いてよ」
 少し、ムッとして見つめ返す。だから、ピアノを弾く気なんて全然ないのに。
 ニコニコスマイルを消す気配もなく、なんともやりづらい相手だ。沈黙をちっとも重く感じていないような時雅さんを見て、私は嘆息をひとつついた。
 そして、イントロの右手を軽く、本当に少しだけ弾いた。
 ううむ、と唸る。なんだか伯父さんにも似たその感嘆の呟きに、私は思わず笑みを零した。彼のしつこい要求に折れて弾いたはずなのに、ちょっとだけ嬉しくなる。
「この曲、歌詞あるの知ってる?」
 純粋な好奇心を持って首を横に振ると、時雅さんは腰を上げて椅子を静かにしまった。
「俺、ちょっと今そんな気持ちなんだけど」
 困ったように笑った彼は、ぽかんとしたままの私を置いて去って行ってしまった。どういうわけか、私は彼がそのまま家を出て行ったことにしばらく気がつかなかった。



 それから、彼との交わりはぱったりなくなった。しばらくは、不思議、というよりも非合理な出会いのことは気になっていたけれど、その気持ちは時間と共に私の陳腐な生活の中で掠れていった。伯父などと彼の話をすることもないし、学校にいて彼のことを思い出すこともなかった。
 しかし、次第に確かにそんな些細なことを気にしている場合ではなくなってしまった。
 第一に、母方の祖父――つまり、母の兄、私が今お世話になっている伯父にとっても父である――が亡くなった。祖母は既に他界していた。
 長男である伯父のもとで、法事のバタバタに巻き込まれ、私自身も出席しなければいけなく、大変な日々が続いた。その言わば喧騒の中で、痛感していた。私と血がつながる人が、また一人減ってしまった。そして、兄妹の血に助けられてつながっていた私と伯父の関係が、薄くなった。
 以前のまま生殺し状態で生かされるのも心苦しくはあったけれど、変化は望んでいなかった。それなのに、運命は残酷にも流転する。今回のことで、伯父夫婦が私への態度を少なからず変えないわけがなかった。もう誰も、私をぞんざいに扱うことに口を出せる人はいないのだ。
 しかし当たり前のように、彼らは私の今後について明るい場所では話してみせない。きっとどこかではしていただろうが、私はなるべく耳に入れないように、より一層部屋に篭もるようになっていた。
 ピアノにも手を触れず、布団に潜って何も考えないようにイヤホンで耳を塞いだ。この時だけは、音楽を聴くのは楽しみではなく方便に過ぎなかった。
「ああ、君が唯子ちゃんか。時雅が君のことをよく話しているよ」
 突然夕食を共に食べることになった伯父さんの友人が、愛想笑いを浮かべてそんな風に挨拶をした。伯父さんと同じくらいの歳に見えたから、同級生か何かだろう。そして、時雅さんの父親だった。
 表向き朗らかで誠実な伯父さんとよく似て、人当たりの良さそうな男性だった。篠島さんは夕食後も伯父さんと晩酌をするようなので、私はまた早々に部屋に帰った。
 しかし本当に運の悪いことに、私は聞いてしまったのだ。自分のことではないにしても、衝撃的なことを。
「時雅が、学校辞めて働くから家を出ていくそうだよ。あいつ成績が良いから、このまま養っていてもそのうち返してくれるとは思っていたんだけど。まあ、一つ荷を降ろせるから止めはしないかな」


 次の日、私は私らしからぬ行動に出ていた。篠島 時雅と接触しなくてはいけない。奇しくも知ってしまった、自分と同じ苦しみを解するかもしれない人物と。
 昼休みにも二年生の教室前をうろついて彼の姿を探したり、自分の教室にただいられなかった。ただ、普通にしていても会ったことがないのだ。今更探したところで会えるわけがないとも何故か思っていたが、じっとしていることが罪のように感じた。
 結局、私は自分の用意した最終手段に頼ることとなった。目立たない自分だから、きっと上手く行く。
 HR終了後、一刻も早く教室を飛び出す。そして、私は門から出た横に立ち、門を通る人を一人一人流し見て彼を探した。
 篠島 時雅がとある教師と共に門から出てきたのは、夕暮れ時ももうすっかり深まった頃で、私は時間の過ぎるのが早いのにひたすら驚いた。
 本当はすぐに声をかけるつもりだったが、私は躊躇した。時雅さんは彼の隣を歩く教師――二年生の担任だ――と、神妙な面持ちで会話をしているようだった。
 幸い、私の存在は二人には気づかれていなかったので、何でもない顔をして二人の後を付けた。
 長くはない通学路、時雅さんは確実に私の――あの家と同じ方向に歩いていっていたから、私は何か特別に考え事はしなかった。ただ、二人の会話の内容が聞こえるほど近くを歩いていたのにその一つも聞かなかったほど無心だったのは、不安か何かがあったかもしれない。
 担任のその教師は、駅に向かう道へと分かれていった。暗がりの中で彼を見送る時雅さんの表情はわからない横顔を見て、私は決心を固めた。
 走っていって、その後ろ姿のブレザーの袖を引っ張った。世間一般の人が振り返るのに使う顔で振り返った時雅さんを、私は何故かいつの間にか涙を浮かべた目で、精一杯睨んでやった。
「こんばんは。お久しぶりです」
 その声は、震えていたかもしれない。得体の知れない力にふにゃふにゃにされてしまった私の身体が発することのできる物理的な現象は、おおよそ力を持っていなかった。字面だけならば、笑みを浮かべて言う台詞だろう。しかし、その時の私にとってみたら、この挨拶は殴りかかったのと同じようなものだった。
 その間、時雅さんの顔を見ていたはずなのに、私は彼の表情が、否、表情を浮かべているかどうかもわからなかった。
 足を止めた時雅さんの袖をつかんだまま、私は口を噤んで肩を震わせていた。初めて彼と会った日より幾分も落ち着いて平穏な晩を、明るい月が演出している。
「……笠原さん、か。びっくりした」
 彼は、いかにもそれまで唖然としていて、それは私の姿を私と認識できなかったからだと主張するように胸を撫で下ろした。その時私は、時雅さんの全てを胡散臭いと感じた。
「なんで」
 心臓がばくばく鳴っていた。私は、怖い。一目ではあんなに人生を謳歌していそうな少年が、抱えている物を知るのが。また、そのために自分の傷口を開いて彼のそれとこすり合わせなければ、彼の痛みを知る権利も持てないことが。
「なんで、学校辞める、なんて……」
「え、なにそれ」
 時雅さんは笑った。
「そんなの誰に聞いたの? そりゃ辞めようと思ったことあるけど、本気で言ってるわけじゃないよ」
 私は疑う。私が彼だったとしても、彼は笑うかもしれない。そうしなければならないかのようにそうする理由を、説明はできなくてもわかる。その気持ちがわかる。
 あんな変なことばかり口走っていた彼が、そんな風に説明をしてみせるのがおかしいと感じた。
「何か、あったんですか」
「え、だから」
 彼の苦笑いは、確かに私の舌の上で苦いものとして受容された。端の方でずっと居座ろうとするそれを、消えないとはわかっていながらも飲み込もうとする。そうして生唾を飲み込んで、私は息を吸った。
「私は確かに、カゴの中の鳥です。それも、ペットショップで売れ残ってるような。少しの利益は期待できるけど、手放せるものなら手放したい。けれど、殺したり捨てたりなんて表向きにはできない。生殺しにされて、それでも生きていられることに感謝しなくちゃいけない。――時雅さんは、そういう意味で言いました、か?」
 真実に怯えていた心が、少し変わった。真実を隠しながらそのために自らに刃を突き立てる彼の前で、無傷でいることが愚かに思えた。そうして今度は、自分の痛みなんかから逃げる自分が、恐ろしくなった。
「……そうか。昨日、父さんは樋口さんのところに行ったんだな」
 時雅さんは、それまで――私に初めて話しかけたときも――とは全く違う人物であるかのように不似合いな表情を浮かべた。しかし私はその表情を、顔をよく知っている。毎朝、毎晩、鏡の中で出会っている。
 私の顔そのものだった。


「はい」
 近くの公園まで時雅さんを引っ張っていった。あんなところでの立ち話は、しかもこんな話の内容は、少しはばかられる。それに、いつ両者の知り合いが通るともわからなかった。
 肩にかけられた時雅さんのブレザーを見て、それでも半ば放心していた私はそれについて何も考えることができなかった。
「唯子さん」
「……はい」
 笠原、と違って子音の曖昧な柔らかい響き。ふわりとしたその呼び声に、ゆっくりと応える。
 時雅さんがそう呼ぶのに、違和感は覚えなかった。そもそも、彼との不思議な関係自体が違和感の塊で、それに比べたら呼び方なんて些細なものだ。
「とりあえず、落ち着いて。もう言い逃れも逃げたりもしないから」
 彼の意志のこもった声が、酷く疲れたものに聞こえた。しかし、それは動揺している私を落ち着かせようと、とても丁寧に、優しく発せられた。
 震えが収まった身体は確かに少し肌寒く感じた。彼の細い身体を包むのがたった一枚のワイシャツだと気がついて、ブレザーを無理やり押し返した。
「大丈夫?」
 はい、と小さく頷く。ほとんど正常に戻った思考や感情、肉体が、先ほどまでの出来事を夢だと追いやろうとする。
「……何から話そうか」
 身を乗り出して膝に肘、肘に顎を預け、時雅さんは低く掠れた声で呟いた。それは私に問うたのではなく、自分で頭の中を整理しているように見えた。
 華奢な背中のラインが、ブレザーに浮き出ている。骨格は確かに男性のものなのに、四肢はあまりにも細かった。量の多そうな黒髪はもしゃもしゃしているが、クセはほとんどない。ある種ちぐはぐで、ある種今時の男の子にありがちなその容姿を、私は何と評価するでもなく、隅から隅まで眺めていた。
「俺と唯子さんの違うところ」
 身体を起こして、彼はもう一つ、そうだなと呟く。
「昨日きっと君が会った俺の父さんは、一応俺のちゃんとした父親だ。厳密には、義父ってやつだけど。母さんは父親がわからないまま俺を生んでから、父さんと会って結婚した。俺にとっては本物の父親も同然だったけど、母さんが死んでから、父さんにはそうは思われてないってわかった。母さんがいない今、俺は父さんにとって他人でしかない」
 時雅さんの口調は、淡々としていた。渇舌のしっかりした彼の心地良い高さの声では、ニュースを読むアナウンスのように聞こえた。
 彼は、一体どれだけの間、父親を愛し信じていたのだろう。そしてそれを裏切られたショックは、どれだけ大きかっただろうか。息の詰まるだけのたった十年間を苦しがる私が、いかにくだらないか。
「で、同じところ。本当の意味での帰る場所がない」
 息を多めに吐きながら、なるべく話を軽く聞かせようとしているのか、少し笑い声を含ませてみせている。
 私は、悔いた。時雅さんと自分が同じ痛みを背負っていると思っていた。しかし、彼は名前すらも、宙に浮いている。彼の「篠島」という名字は、誰の物なのだろう。
 ここまであっさりと彼が語ってくれたことは意外でもあったけれど、当たり前のようにも感じた。
「……でも、今までお父さんと暮らしてきたんですよね」
 彼は、父親の心を知ることがなければ、ずっと幸せなままのはずだった。普通の家族と、何ら変わりのない義理の親。愛する者のいる、家庭。
 うん、という肯定は呻き声のようだった。時雅さんがスポンジケーキのように浮かべた柔らかい笑みは、涙が出そうになるくらい儚げだった。
「父さんが、好きだから。見て見ぬふりをしていたくなくなったんだ。曖昧で演技ばかりの日々は、自由なんかじゃなくて、ちょっとばかり長いリードに繋がれてるってだけみたいだ。そして父さんもまた、そのもう片方の端っこを握っていなくちゃいけないって意味で、俺に繋がれてる」
 彼の感じる塞ぎは、体面を気にする大人のものでも、気まずさを嫌う青少年のものでもない。けれど、子供みたいにただ愛する父親を思う感情を露わにできるのは、ただ使命みたいに今を嫌う私なんかより大人っぽかった。
「俺は今、こうしていなくちゃいけないわけじゃない。無理に繋がれてる必要はない。自分も、父さんも解放したいから、俺は」
「『家族』を、捨てるんですか」
 一人一人の人間という意味ではない。血縁に結ばれた人間を指す言葉としてではない、その概念。言い換えれば、「本物の意味での帰る場所」。
 こんな時だけ、人並みのことを考える。時雅さんの抱えたものはただの高校生には重すぎて、それと向き合うには彼は幼すぎる、と。自分の事情をさんざん評価して、立ち止まることに、閉じ込められることに甘んじている私が。
「唯子さん」
 諭すような声のトーンは、いささか私の心を揺さぶる。
「君が考えてることは、間違ってない。養われてるのが怖いんだけど、感謝はしてるんだろう? 俺だって、大して変わらないよ。俺はただ、自分を本当に縛ってる『あるもの』を、できることなら直視したいだけ」
 生殺し、と表現した。しかし、私は樋口の伯父さん夫婦を、憎んでいるわけじゃない。殺してほしいとも思わない。それを、時雅さんは言い当てた。
「あるもの?」
「うん。それが、『家族』だ」
 時雅さんは、不思議と嬉しそうだった。普通の会話の中でするように、――そうだ、初めて話した時のように、ハンサムな微笑を浮かべた。
「考えてみたら、一人だって生きていける。というか、一人の方がずっとたくさんのことに挑戦できる」
 公園を横切ろうとした野良猫が時雅さんの声に立ち止まり、こちらをじっと見ている。緑色の目は、薄暗い中で煌々ときらめく。彼――または彼女も、人間の子供よりもずっと早いうちから一人で生きてきたのだろうか。
 人間は、猫とは違う。社会的動物だ。家族とは誰しもが持てるはずのもので、社会の最小単位とも呼ばれる。そこから抜けて、しかし社会から浮いた存在にならないためには、並々ではない努力が必要だろう。
「それが――」
 私がそう考えたのは何故だったか。強い意志を持たずに生きてきたはずの私が。
「今で、本当にいいんでしょうか」
 今手放してしまったら、少なくともこんな方法じゃ、もう二度と取り戻せない。いずれ一人で生きていくとしても、それはいつ始めても同じこととは限らない。
「今の時雅さんに、大事なものってないんですか」
 自分がゼロであれば、無であれば、どんな選択も恐怖には繋がらないとしても。それは一人では生きていけない人間には、難しいことだろう。
 時雅さんは、笑顔のまま私を流し見る。結ばれていない唇が、いつ次の言葉を発するともわからないそれが、私の緊張を高めていく。
「大事なもの」
 私の目を真っ直ぐに射る、ある意味では強い視線。私にとって彼の言葉は、最初から予測不可能だった。
 ふー、と吐かれた息に呼応するように、私も唾を飲み込む。
「学校辞めたら絶交するって言われたら、やめるかも」
 挑戦、というか、伺うようにもとれる時雅さんの顔を見つめて、動けなくなった。冗談では、ないよね。つまりそれは、私が……。
 そもそも私は彼と、そんなに親しいわけじゃない。どころか、知り合いになったばかりで、お互いの何も知らない。
「なんでかな、おかしいと自分でも思うけどさ。初めて会うよりずっと前から、唯子さんのことが気になってた。それはもう、恋ってくらい」
 私は今、どんな顔をしているだろうか。どんな顔をしたらいいのかわからない。だって、時雅さんの気持ちがよくわからない。
 ハンサムなはにかみを惜しみなく振りまいて、彼は私を見つめる。
「でも、多分違う。ごめんね。――だけど、唯子さんに知られちゃって、説得されちゃって……。正直、このまま突き進むのが、怖くなってきた。君を悲しませてしまうという意味で」
 心臓が苦しい。何を恐れているのか、期待しているのか、緊張しているのか。とにかく、苦しい。
「私――」
 震える身体を奮い立たせようとベンチから腰を上げたら、古びたそれは思ったよりも大きく軋んだ。
「絶交します。今を変えようって思えるのに、その今をまったく捨てちゃうような人とは、仲良くしたくないです」
 苦しかった。私にとっても時雅さんはやっとできた仲間なのだから別れたいと思うはずがなかった。
 ひとしきり心を落ち着かせるために思いを巡らせてから時雅さんを振り返ると、彼はにっこりと笑った。
「本当に、君って最高だね」
 彼の大事なもの――。私じゃなくて、それは仲間だろう。存在していなかったとしても、存在し得る、存在することを切に願ってしまう、仲間。
 そして、それは私にとっても同じだった。ベンチがもうひとつ軋む音が笑い声みたいに聞こえた後、私はそれを実感した。




 愛おしそうに名前を呼ばれた。何度も、何度も、何度も。優しそうな声は、今は亡き、父か、母か。休日の昼下がり、父と、母と、私と、音楽と――。
 見覚えのある光景、それでも、何かが決定的に違った。オーディオセットはそこにはなかった。よく見たら、父も母もいなかった。私と、音楽と、そして、私を呼ぶ声。
 唯子さん、とその声は呼んでいた。唯子さん、唯子さん、と、何度も。
 流れる音楽は、あの日私が弾いた曲。彼は、それに合わせて口ずさむ。耳慣れない英語の歌詞は、私の意識には届かない。届くのは、耳慣れたメロディーだけ。ノイズの多い、古びたピアノの音が、ひとつひとつの輪郭を持って私の脳内に忍び込んでくる。
 そして私はそれを、受け流す。鍵盤をなぞる両手が、そのまま外に流してくれる。
 笑い声が聞こえた。私は、気がつくと、それに合わせて一緒に笑っていた。こんなの、いつぶりだろうか――。


 チャイムの音が私を現実に引き戻す。そして、もうひとつの夢の中に私は投げ入れられた気分になった。
 窓に寄って見ると、時雅さんがニコニコしながら私の部屋の方を見ていた。もうひとつ鳴らしてみせて、伯母さんたちがいないことを私に思い出させる。
 なぜだか気持ちが逸って階段を駆け下りると、時雅さんは既に家の中に上がっていた。
「唯子さん、おはよう」
「お、おはようございます……?」
 制服ではなく私服に身を包む彼は、もともとそうなのに、もっと大人っぽく見えた。そうだ、今日は休日なのだ。
「約束通り、唯子さんのとこの本貸してもらおうと思って来たの。あ、チョコレート食べる?」
 迷いもなくずいずいと踏み入って、階段を上り始める。押し付けるように差し出された紙袋を受け取って、私は困惑しながら彼に続いた。
 自室とはいえ、私物もほとんどないので勝手に入られることに抵抗はないけれど、今日の時雅さんは、何か変だ。そう思っていると、彼は部屋の前で立ち止まった。
「……って、やっぱり突っ込んでくれないよね。今日は、改めてお礼を言いに来ました」
 振り返った時雅さんは、逆光の中で赤い顔をして照れたように笑っていた。そのどことなく潤んだ瞳と目が合って、私もついつい笑ってしまう。あれ、こんなの、前もあったような――。
 とは言うものの、時雅さんは部屋に入ると早くも目ぼしい本を次々と机の上に積み上げ始め、私は手持ち無沙汰で、なんとなくピアノの椅子に座る。
「あ、そうだ」
 本の山を積み上げていた時雅さんは、ピアノの前に座った私を見て、カバンから何かを取り出す。
「こないだ言ったやつのCD。よかったら聴いてね。母さんの、形見なんだけど」
 年季の入ったCDは、伯父さんのコレクションよりは幾分も綺麗で、丁寧に扱われているようである。そんな大切なものを、持ち出して、私に貸してくれるなんて。
「気にしなくていいよ。うちで流すと父さんが泣いちゃうから、大事にしててもなかなか聴けないし」
 受け取れずに遠慮がちに遠巻きに見る私を見て、彼は笑う。
「ありがとうございます」
 きっと、時雅さんも泣いちゃうんだろう、と、なんとなく思った。だって、そう言う彼はあまりにも嬉しそうな表情を浮かべていたから。
「それで、なんだけど」
 最初にここに来たとき座ったあの椅子に座って、彼は私に向き直る。私も、今度はピアノの椅子を横に座って、しっかりと正面から向き合う。
「学校にはやっぱり行くって、改めて父さんには伝えました。ちゃんと勉強して、ちゃんとした大学入って、いち早く自立できるように頑張るって。……なんとなくだけど、父さんも、反対してるようには見えなかった」
 こんな風に伝える時雅さんは、さっき感じたのとは正反対に、子供っぽく見えた。どういうわけか、こんなことを人に話すのは初めてなんだろうなと思う。私が、まだ話したことがないように。
「よかったじゃないですか」
 きっと、彼のお父さんがどう思っていようと、時雅さんはお父さんが好きで、感謝もしている。だから、十分すぎるほどの恩を返そうとするだろう。それがひしひしと伝わってくるほどに素直に愛情深い時雅さんの気持ちを、お父さんも少しはわかっているのかもしれない。私だったら、そうかもしれないと思う。
「だから……。ありがとう、これからも仲良くしてくれるよね?」
 早口でまくし立てた、少し恥ずかしそうな彼の声や表情に、私も少し恥ずかしくなる。だけど、ここまで踏み込んで、首を突っ込んで、かき回して。意を決したからには、私は意外と大丈夫みたいだ。
「勿論です。絶交しないって約束しましたから」
 気丈になれるのは、他人事のように思えないから。彼の傷を守ろうとすることで、自分の傷を守れているような気がするから。それは、一人では隠せたとしても、癒すこともできなければ、守りながら抱えていくことも難しい。だけど、私も、彼も、もう一人じゃない。
 にっこり笑った彼は本当に解放されたように穏やかな表情で、私の心も、嫌なことを全て忘れていいみたいにすっきりと晴れた。こんな風に……こんな風に、家族や仲間と、一緒に生きていくって意味で人間は社会的動物なんだろう、と、変に納得した。
「唯子さんも――」
 そして、今度は時雅さんの番なのだと。
「俺は、冗談じゃなく思うよ。樋口さん達のことを前から知ってたし、唯子さんと直接話して、確信してる。樋口さん達は唯子さんのこと邪険に扱ってなんかないさ。心配性な君と、どう接していいかわからないままここまで来てしまったんだって、そんな風に、俺は思うよ」 
 名字も、まだ浮かんだままの彼と、『今の親』を信じ切れない私と、どちらが一体悲惨だろうか。私という主観が、自分が被害妄想をしていることを認めたがるわけはない。
「唯子さんは、ちょっと怖がりで、慎重すぎるよ。俺とは正反対。きっと、樋口さん達に本当の『親』を求めたら、応えてくれるさ。君のこと、心配してる時もちゃんとあるから」
 それは、確かにそうだろう、と、自分を眺める客観は言う。傷つくことも、傷つけることも、全てが怖い。怖かった。でも、それを打破できたからこそ、時雅さんの真実を聞くことができたのだ。
「そう……ですね」
 自分でも、驚いた。いつの間にか細くなっていた息が胸を詰まらせていた。時雅さんの顔色が変わったのを見て、不思議に思って、その次には気がついた。
「う、嬉し泣き……です、多分」
 頬をなぞると、冷たくなった涙に指先が触れた。笑ったのも、泣いたのも、久しぶりだった。私は、久しぶりに人間に戻ったって、そんな奇妙な感覚を覚えた。
 自身も泣きそうなくらいの笑顔を浮かべて、時雅さんは私を見つめた。涙は、どんどん溢れてくる。申し訳なさに、私はどんどん拭うけれど、それ程に溢れてくる。
 伸びてきた腕は、あの日と同じだった。私が女の子として生まれたことを少しだけ悔しく思うのも、あの日と同じだった。私が、私という生き物が、人間らしく生きることを思い出したように、ただ泣いていた。
 あの日、時雅さんに抱き締められながら、彼が兄だったら、と考えた。兄だったら良かったのにな、とは思わなかった。似ているようで、すごくずれていて、救いようもない程にお互い重荷を抱え込んでいる。ああ、やっぱり、こんな出会いが一番だったろう、と。
 傍から見たら彼が慰めているように見えるだろうか、それでも、私は確信していた。私が可哀想になったからでも、見ているのが辛いからでもない。自分を守り、相手を守り、お互いの傷を確かめ合うように、そうするのが一番自然であるかのように、彼は私に身を寄せるのだ。だから、私は自分が女の子として生まれたことを少しだけ悔しく思うのだ。
「もう――ひとりじゃないね」
 頷くと、もうそれ以上涙は出てこないようだった。夢の中で、ぽっかりと抜けていたもの。時雅さんは、そこに驚くほどぴったりとはまった。人生とは、奇しくも――。
 やがて、二人で見た窓の外には、煙が昇っていた。また、近所の畑で何かを燃しているのだろう。もうずっと、何年も経験してきたそんな冬の景色が、新しく見えた。そんなことだって、時雅さんと共有した一つの、痛みではない何かであったから。



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