Just a Moment -Fluently- side ep.1
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「啓司君。ね、バイオリン聴いてっ」
「ん。どーぞ」
 啓司君はいつでもしっかり聴いてくれる。
 ちょっとの音の違いをしっかり聴きとって、優しく指摘してくれる。
 聴いてもらいたい。そのためにもっと上手くなりたい。
 ちらと見た彼と目が合ったとき、おかしそうに微笑んでくれた。
 グランドピアノが似合わないなんて思ってる人は、啓司君を知らない。
 ずっと前からあたしは知っていたから、わかるんだよ。

 啓司君と初めて話したのは、あたしが放課後に一人で練習しているときだった。
 忘れ物を取りに来た啓司君が、あたしの演奏を聴いて、どうしても低くなってしまうところを指摘してくれたのだった。
 一年生のときはクラスが違ったから、全然啓司君のこと知らなかった。
 第一印象は、「真面目そうな人」。意外かもしれない。でも、ホントにそうだったんだ。制服をぴっしりと着て、少しハネているけれどしっかり整った髪形。そして、メガネ。
 それがきっかけでたくさん話すようになった。
 文化祭でトルクウェーレ――啓司君たちのバンドが初めて演奏してから、啓司君は徐々にオシャレになっていった。
 と言っても、あたしが八割方助長したのだけれど。
 でも、よかったと思う。啓司君は真面目だけど、それでも明るくて親しみやすいのに、外見で損していたから。
 ピアスと指輪、それに茶髪でグランドピアノの前に座るのは確かに不自然かもしれない。
 あたしはピアノは弾けないからわからないけれど、啓司君はすごくピアノが上手いらしい。
 いや、楽譜を見るだけで嫌になってしまうような曲をすらすらと弾くんだから、上手いんだろう。
 なかなか学校で他の子たちが啓司君のピアノを聴く機会はないだろうけれど、あたしは何度も聴いたことがある。
 細くて綺麗な指で鍵をなぞる様は、男性とは思えないほどに美しかった。
 陽気に笑うときの啓司君は、太陽みたいだった。

「――うん。良いんじゃないかな? 俺が言うことは何もないかも」
「本当? 良かった」
 思わず自然に口元が綻ぶ。
 啓司君に褒めてもらうのは嬉しい。優しいけれど、評価はしっかりしてくれる人だから。
「この前ね、清香にギター弾かせてもらったんだけど、同じ弦楽器なのに、ギターは本当に難しいんだね」
「はは、そっか。亜子的にはそうかもしれないね? でも、多分バイオリンの方がずっと難しいと思うよ。ギターが簡単だとは言わないけど」
 放課後引き止めてしまったにも関わらず、啓司君は帰る支度をする手も止めて話をしてくれていた。
 ともかく、ギターは私にとっては未知の楽器だった。
「似てるようで全然違うの。先輩に両方やってた人がいるけど、尊敬しちゃうなぁ」
「なんでも楽器二つは羨ましいよな」
 啓司君はピアノとキーボードできるじゃん! と言うと、あ、そうか、と照れるように笑う。
 同じような物……って言っちゃったら、バイオリンとビオラみたいなものだけど、あたしはビオラ弾けないからね!
 こんなことを言っても、あたしはバイオリンを一筋にやってる自分が好きだし、啓司君はピアノだけ弾ければそれで十分だ。
 一人でいくつもできないからバンドがあるんだもの。
「じゃ、そろそろ練習行かなきゃだから。じゃね」
「うん。頑張ってね」
 明るい笑いを浮かべながら啓司君はせっせと荷物をまとめてから、またひとつ手を振って教室を出て行った。
 あたしは机に突っ伏して、その冷たさを頬に直接感じる。
 今のままでも、いいのだけど。
 失われるのが怖くて、踏み出せずにいる。

*

 品川 啓司はピアノ演奏家の両親のもとに生まれた。
 生まれたときから小柄で、幼い頃も人見知りを全くしない子供だった。
 親があれば子もあり。ピアノを三歳の頃に始める。
 両親がピアノの教師となったこともあって、日夜ピアノに明け暮れる日々だった。
 彼自身は幼い男の子には珍しく、ピアノは好きで、どんな音楽にもよく興味を持った。
 自分から志願して、中学生のときにピアノの他に作曲を学び始める。
 才能はともかくとして、若い彼はみるみる成長した。
 ピアノ演奏の技術はさながら、幼い頃より音楽に触れてきた彼の表現は豊かなものだった。
 品川 啓司の人格を形成するにあたって欠かせないものは、やはりピアノと音楽だったであろう。
 しばしば愚痴や悩みを抱え込むことのある彼にとって、ピアノでの表現は日常となっているが、ストレス発散でもあった。
 本人は気づいていないであろう、そんな毎日のサイクルが、常人には理解しがたい彼のストレスのない生活を生み出しているのだろう。
 作曲については、中学二年生からDTM――デスクトップミュージックを始める。
 遊びについてはピアノさえあれば事足りるという彼は、小遣いのほとんどをこれにつぎ込んできた。
 周囲に疑問を持たせつつも外見に気を配らなかったのは、こういった金銭的なこともあるだろう。
 大人を驚かせるハイクオリティの曲が作れる彼が軽音楽部で自分の曲を演奏しようと考えた理由は一つだった。
『誰かと作品を共有したい』

「……なんてな」
 そんなことを考えたこともあった。
 確実に、あの時の自分は自惚れていただろう。
 バンドに曲を書くのがどれだけ難しいか考えたこともなかった。
 メンバーの技術は高いものだから、自由度はもちろん高い。
 しかし、楽器が少なく、基本的に生で聴くものだから、勝手が違う。
 融通の効くキーボードをいかに上手く使うかが問題になる。
 無意味にヘッドフォンを耳に押し付けても、メロディーは浮かんでこない。
 机にあるキーボードの鍵盤ではなく、ピアノに触れたい。
 素直に答えてくれる。ピアノの音は心地良い。
 自分でも思う。人と触れるのも好きなのに、ピアノさえあれば何もいらない気分になるのは、異常なことだと。
「それも、嘘かもしれないな……」
 依存しているような気もする。
 亜子や、トルクウェーレのみんな、他の友達、そして両親。
 今の自分があるために欠かしていいものなど一つもない。
 そうだ、亜子。
 彼女に提案があるんだった。
 ピアノの前に座ると、自然にペダルに足をやる。
 いくつか迷った後、少しずつ鍵を叩く。
 初めて会ったときに彼女が弾いていた曲。
 弾きたくなった。ピアノの曲ではないのに。
 知りたかった。ピアノとバイオリン、二つの楽器を「弾く」違いを。
 最後まで弾き終えていくつか思案していると、ポケットの携帯が鳴った。
 知らない番号だったが、とりあえず出た。
「もしもし」
「品川 啓司君ですか?」
 中高年の女性の声。
 はい、と肯定して、もしかして、という懸念がよぎる。
「根川ですが。……亜子が帰っていないんですが、知りませんか?」
 心なしか慌てて聞こえる。
 当たり前だろう。とても大切なことだ。
「すみません、知りません」
  あの後、亜子と一緒に帰ったわけではない。彼女も部活に出たはずだ。しかし、なんとなく俺は行動に出ていた。
「僕も探してみます。何かわかったら電話しますね」
 終話をする前に、コートを羽織って外へ出る。亜子のお母さんの声を聞きながら見た空は、既に暗い群青だった。
 走って学校に向かう途中で、外した指輪をピアノに置き忘れたことに気がつく。自分には珍しいなぁと思いながら、亜子に対する不思議な行動力には、あまり疑問は持たなかった。
 亜子の最寄り駅は知っている。しかし、家と駅が近いと言っていた記憶がある。最寄り駅から家の間で何かがあったり、道草を食っているなんてこともないのではと思った。
 こんなときに限って特急の通過待ちをする電車に苛立ちを覚える。亜子を、早く見つけなきゃいけない。
 とにかく、駅から学校までの道のりにいるかもしれない。電車が駅に着いた途端、俺は走り出した。
 暗いから、辺りはよく見えるというわけではない。少ない人影の中に亜子がいないことは確認できるが、本人は見つからない。
 もう秋も暮れだというのに、走ったせいで汗が滴る。それをひとつ拭ったときに、聞き覚えのある声が聞こえた。
 甘ったるさのない、さっぱりとした、それでいてかわいらしい高い声。亜子に違いないと、その微かな声で確信を持った。
 注意深くその声を聞いて、振り返る。見つけた。俺が言うのもなんだが、高校二年生とは到底思えない小柄な身体が歩道にしゃがんでいた。
「亜子!」
 名前を呼ぶと、パッと顔を上げた。彼女は、髪もボサボサで、目に涙を浮かべていた。
「……啓司君?」
 駆け寄っていくと、しゃがんでいた亜子は力が抜けたようにぺたりと座ってしまった。
 制服で、通学カバンにバイオリンケース。本当に学校からそのままこんなところにずっといたんだ。
「何してたの? 亜子のお母さん、心配してたよ」
 あくまで優しく。彼女はそうでもなければ泣き出してしまいそうな状態だった。俺の方も、焦りを感じたほど心配してはいるのだが。
「お母さんが……?」
 とても意外そうに目を見開く。もしかして、亜子は――。
「もう、八時だよ」
 ポケットの携帯の、サブ画面に時間を表示させて見せる。何をしていたのかは知らないけれど、時間を忘れるなんて、彼女にならよくある話だ。
「えっ! ホントだ。……どうしよ、あたし」
 座り込んでいた亜子は、突然慌てたようにとりあえず腕をぶんぶん振り出したので、思わず笑いそうになったのをこらえて制止する。
「ちょっと、落ち着いて。何してたの、亜子。どうしたんだ?」
 俺が軽くつかんだ腕をぽかんと見つめたあと、亜子は立ち上がってスカートをはらった。そして、地面に置きっぱなしだったカバン、そしてバイオリンケースを持ち上げた。
「あのね……。ここにつけてた、クマがなくなっちゃったの。啓司君にもらったやつ」
 そう言われても、あげた記憶がなくて、数秒かたまった。しかしよく考えたら、思い当たる節がないでもない。亜子に買ってもらった飲み物についてたのを、彼女が欲しがるからあげた気がする。俺があげたことになるのか、これ?
 とにもかくにも、見覚えはある。真っ赤で、目立つ色だったから。しかも、なにせ……。
「亜子、バイオリンケースの中、見た?」
 え、と首を振って傾げた彼女の抱えるそれを受け取って、開けてみせる。
「わぁ、あった!」
 松脂っていうんだっけ。あれとかの入ってるところの布の下から、確かにそのクマは出てきた。
「でも、啓司君、なんで」
「ゴメン、さっき放課後にとれてるの見かけて、とりあえず中に入れて言うの忘れてた」
 本当にそういうことなのだ。亜子のことだから、こういうものもひどく大切にしそうだとわかっていた。しかし肝心の本人に言うのを、今の今まで忘れていた。
 まったく、俺、なんなんだ……。
「そっか……。でも、よかったあ」
 出てきたクマを愛おしそうに見つめ、へにゃりと笑う。こんな姿は、本当に子供みたいだ。悪い意味じゃなくて、万人を和ませる雰囲気がある。 「解決したことだし、電話しとく?」
 コクリと頷いた亜子に、先ほどの番号にかけた携帯を手渡す。ついでに時間も確認した。


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