Blossom - X'mas 2011 水瀬「抱えた秘密の重み」

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「っしゃー!」
「…………」
「な、何だよ」
「いやー水瀬はあんま信用されてないからなー」
「基山チャンはそんなこと思ってないよね?」
「えーっと……」
 綺麗なカーブを描く下のまぶた越しに見つめられて、少しウ、と押し負ける。
「安心してくれって。俺は女の子が好きだけど、人一倍大事にもするからサ」

「もしもし?」
「もしもし。基山チャン、ちょっと予定変更」
 水瀬先輩が、改めて待ち合わせ場所に定めたのは、私一人ではとっても行けないような繁華街の駅だった。
「じゃ、ホームのどっかにいるから」
 降りるはずだった駅を通り過ぎ、そのままその駅へと向かった。
 水瀬先輩と……。少しだけ、不安もあった。
 だって、じゃんけんに参加した人の中では、一番、いわゆる「チャラい」人だったから。
 いつも朝は一緒に登校したりするし、信頼していないワケでもないけど、彼は掴みどころがなくて、何をするかわからないのもまた事実だった。
 隼先輩も多分大丈夫だろ、と言ってくれたけど、不安が残るのは仕方なかった。
 電車を降りて、階段へ向かう人波に飲まれないように、どうにかホームに残る。
 キョロキョロしながら先輩の姿を探すと、ふいに肩に感触を感じた。
「おはよーさん」
「あ、おはようございます」
 いきなり肩を抱かれて、急に上がった体温と心拍数でも、冷静に挨拶ができる自分に驚く。
 やっぱりいつもの調子とは少し違った。だって、いつもは別にこんなこと毎朝してくるほどでもないから……。
「はは、早ェーぜ? ドキドキすんのはまだこれから」
 完璧に決めてくる水瀬先輩の瞳から逃げることはできなくって、私はまさにヘビに睨まれたカエルの状態だった。
 そんな私を見て、とりあえず身体を離したが、その手は私の右手を探って指を絡めてきた。
「あ、あのっ!」
「今日のテーマな、『擬似彼女体験』。恋人同士のデートで手、繋ぐのは基本中の基本だ。だろ?」
「でも――」
 サキ先輩に、ダメって言われてるし……。
 それに、今日のテーマって、勝手に決められているけども。
「はーいはいはい。俺さ、既に基山チャンと手繋ぐだけじゃなくて色々してるだろ? それに今日は、この後のサキのために色々教えてやろうと思って」
 私の相談に乗ってくれるときの優しい目で、水瀬先輩は笑った。
 色々して……ないコトは、ないけど。
「サキ先輩に全部言っちゃいますよっ」
 水瀬先輩には、一番使える脅しだと思って口にしたのだが、それに反して彼は鼻で笑った。
「俺にファーストキス奪われちゃったのも、デートに行かせちゃったのも、サキなのになー?」
「だってそれは水瀬先輩がっ」
 むすっとして反論した私の鼻先を、彼はその長い指でつついた。
「だーかーら。それをただの『ワルイコト』だと思うか、反省して次に生かすような経験だと思うか。で、基山チャンが今後俺みたいなのに引っかからないようにってコト」
 でも、水瀬先輩は、別に悪い人ではないだろうに。今まで、私が嫌だ、と言葉で否定したことは何一つやろうとはしなかった。
「サキにとってはキミが正解だろ。だから、基山チャンの間違いを正しちゃくれない。だけど、それは隼はやってくれる。それで、俺は――」
 まだ眉間にしわを寄せて黙り込んでいる私に、懲りなく笑いかけて、彼は私の耳元で囁いた。
「キミに、夢を見せてあげる」
 びくっと肩が震えた。驚くほどに色っぽい声でそう言った水瀬先輩が耳元から遠ざかるのを感じて、私はばっと耳に手をやった。
「あの……。嬉しく、なくはないんですけど、でも私、サキ先輩に申し訳なくって」
 勿論、カッコイイ水瀬先輩と仲良くすることが嫌なワケではなかった。彼の単純ではない素敵なところはわかっているつもりで、彼に裏切られたことといえばただの一度だけだった。
「サキの縛る範囲だけで生きていけるほど、女の子は健気なモンでもないっしょ。こうして今、サキと基山チャンが一緒にいないのは、色々あれどアイツのせいだし」
 まだ反論の余地はあったけれど、彼は黙って目尻を下げて微笑み、私の手を引いた。
「俺だって女の子に不自由しないってワケじゃないんだから」
「……えっと?」
「こーんなカワイイ女の子とデートできて純粋に嬉しいってコト。俺のためにも、今だけはサキのこと、忘れようぜ?」
 突拍子もないことを言い出した水瀬先輩についていけなくて、私はぽかんとしてしまった。それでも、言葉一つ一つから繰り出される押しは、だんだん強くなっていて。
 ……甘えても、いいかな? サキ先輩との約束、破っても。
「桃歌、おいで」
 穏やかに笑って、初めて私の名前を呼んだ水瀬先輩に向かって、自然と足が進んだ。
 それは魔法みたいな一瞬だった。

「結構歩いてるだけでも面白いだろ? あぁ、一人だと確かに心細いかもな。人、たくさんいるから」
「そうですね。でも、だからこそ来られる良い機会になりました」
 ときどき、水瀬先輩が視線を受けているのを感じながら、私はすっかり彼との恋人繋ぎにも慣れてしまって、見慣れない人ごみと町並みに心を躍らせていた。
 なんだかんだ彼が親切でやってくれているとわかっていた。あれこれ考えずに楽しむ方が自分にも水瀬先輩にも良いことかなぁって。
「なぁ、俺がいっつも『基山チャン』って呼んでる理由……あと、隼の『チビ』もかな、知ってる?」
「……なんでですか?」
 そういえば、部員は割とみんなそれぞれ色々な呼び方で私を呼ぶ。
「サキがな、最初の頃は名前呼んだだけで怒ったんだよ。琴みたいに変なあだ名つけるワケにもいかないし、まぁそんなワケで考えた結果ってゆーコト」
「そ、そうなんですか……」
 思ってみれば、最初の頃はサキ先輩はすごく過激だった。最近はある程度なら全然怒ったりしないし、その辺りのことで私が困るということもなくて、常識的に近づきつつあった。
「まァ慣れちゃったしな。でも、桃歌って名前、嫌いじゃないぜ」
「私も……水瀬先輩の名前、好きです」
 女の子みたいに綺麗な響きで。他の誰とも似つかないような名前が、彼にふさわしいと思っていた。
 乾いた笑い声を立てて、彼は私の身体をぐっと引き寄せた。
「そーやってお返しでも褒めたりすると、調子に乗って、こう、ぱくっとやられちまうぜ?」
 顎に指をかけて、口の前で噛み付くフリをしてみせた水瀬先輩の仕草に、かなりドキドキしてしまった。キス、されるかと思って。
「あと。そのビックリ顔もむすっと顔も抱きしめたくなるからむやみにしない」
 ドキドキというかドギマギに対応するのに必死で、目の前の彼をどこともなく見つめていて、全然神経の通っていない私の頬をつつきながら、水瀬先輩は余裕たっぷりに笑った。
「あ、な、からかわないでくだいよっ」
 往来のど真ん中だったことを思い出して急に恥ずかしくなった私は、左手は前に押し出して、顔を背けた。
「考えなしに両手を出すと――」
 その左手はどこにも届かなくて、水瀬先輩の手にまとめて掴まれた。
「ほら、もう俺のモンだ」
「…………」
 本気だったら、勿論、迷わず梢君にしたことをする。
 でも、彼の場合そんなことないんだけど、どうにかしてこの場からなんとか抜け出したくもあった。
 あれやこれやと思考していると、水瀬先輩は笑って手を離して頭を撫でた。
「はいはい。今、泣きそうな顔してるぞ。……んーと、キミに対して少しでも愛情があるヤツなら、泣いたら少なくともちょっとは怯む、かな」
 水瀬先輩はちゃんと私のこと気にかけながらこういうことを今してるってわかってるけど、やっぱり、ちょっと怖いし、ちょっと遊ばれた感じがして、嫌な気持ちだった。
 泣きたくなんか、ないけど……。
「……あれ?」
 何ともいえない気分でうつむいた私を見て、水瀬先輩は少しの間黙っていた。そして、再度私の右手に左手を絡めて手を引いた。
「わかったよ。お姫サマ、暖かいところでちょっと話そうか」
 呆れた風なんかじゃなくて、柔らかな彼の口調を全然、聞く気なんてなさそうな態度の私に、それでも彼は優しく促してくれた。きっと、素敵すぎる笑顔と共に。
へそを曲げて、親に引きずられている子供みたいに、私は口を結んで彼についていく。
 だって、何を言えばいいのかわからない。泣けって言うの? 、とか、どうすればいいのか、とか、どうしてか非難の言葉ばかり出てきて。
 黙って私の手を引く水瀬先輩は、こうやって機嫌を直すのもお手のものなんだろう。だって、水瀬先輩だから。
 もやもや考えながら、いつの間にか私は彼と向き合って、ケーキ屋さんの椅子に座っていた。
「あの……」
 どうしてこうなった、と言わざるを得ないのは、あんまりにも私がぼうってしていたからだ。
 こじゃれた店内で、こじゃれた音楽が流れ、目の前には水瀬先輩。
「ちょっと話そう、って言っただろ? ――さっきは、ゴメンな」
 肘をつき、目を細めていた体勢から、しっかり背筋を伸ばして座りなおした。
「うん、ちょっとばかし、桃歌のプライドを傷つけたかなと思う」
 当たり前のように私を呼び捨てにする水瀬先輩に違和感を覚えて、プライドなんて……とまた自分の思考に沈んでいきそうになる。
「忘れてたわけじゃない。梢に脅されてキミかけ泣いたこと、葉山先輩に散々オモチャみたいに遊ばれて嫌な気分を味わったこと。……むしろ、忘れていてほしかったくらいだった。でも、そんなワケ、ないよな。――なぁ、今まで自分が傷ついたことを全部認めて、覚えているか? 辛くないって思うのは強さかもしれないが、弱さを認められない弱さでもある。そして、思いがけない場面で、否定もできないような衝撃を受けたときに、混乱して崩れてしまう」
 最初は静かに淡々と語っていたが、何かを思い出しているのか、後半は朗々と文章を読む役者のように、重たく厳しい言葉だった。
 彼は……どんな経験をして、そんなことを思うの?
 いつもの明るい笑顔の裏には、やっぱの重たい事実を隠しているような気がして、私は自分自身に投げかけられた言葉よりも、水瀬先輩のことが気になってしまった。
 ――だけど。この場を与えてくれたのなら。
「正直に言っても、いいんですか?」
 私が忘れられない、傷。今でもずっと、気にしてしまうコト。
 彼は長い睫毛で少し瞳をふさいで、それでも優しく微笑んで頷いた。
「水瀬先輩がファーストキスでした。でも、そのすぐ後に先輩が他の人とキス、してるの見ちゃって……。あの、理由が知りたくて」
 あのときは少なからず何かを期待してはいたかもしれないけど、今となっては、彼がどうして頼んでもいないのに私にキスをしたのか。それが知りたいだけだった。
 目の前の彼は、何とも言えない表情でひとつ溜め息をついた。
「それ、か……。それに関しては……えーっと、機会がなくて謝れなかったけど、ホントにごめんなさい」
 『あの』水瀬先輩が、手を合わせて、頭を下げた。
 それに、言葉に詰まっていて。
「? ……はい」
「理由は言えないけど、とにかくごめんなさい。完全に俺のせいだ。桃歌はサキからかばってくれたけど……」
 冗談みたいに素直に謝った彼に、正直戸惑った。そんなことよりも、だって、理由が知りたくて……。
「あの、どうしてですか?」
 謝らなくてもいいのに、と首を傾げながら問うと、彼は肩をすくめた。
「言ったらもっと傷つくと思う。し、俺には言う権利はない、カナ……」
「権利? サキ先輩が関わってるなら、私が保障します」
 個人的なことで言いたくないなら追及はしないけれど、だって、彼は多分私に気を遣ってそんな風に言っている。
「……もう知らないぜ」
 少し熱くなって食い下がる私に、彼はもう一度溜め息をついた。
「その……。怒ると思うけど、正直に言うと、『したかったからした』」
「…………」
「で、なんか勘違いされてたみたいだけど、前後はあれど付き合ったコトある子以外とはキスしたことない。――桃歌?」
 わ、たし……。どうしたんだろう。水瀬先輩の動機を聞いて、本当は、すぱっと諦めたかったのに。
 うつむくことは、なんとなく悔しかったからしなかった。けれど、机の上に置いた拳を、爪が食い込むくらい強く握り締めていた。
「……続けてください」
「キミの中学時代の話を聞いて、そのときの桃歌とサキと色々考えてたら、急に、ね……。こんなこと言いたくないけど、桃歌に引きずらせることになるならしなきゃよかったとも思って後悔してる」
「じゃあなんでしたんですかっ」
 後悔してくれなくたっていい。私は別に、彼とキスしたこと自体が嫌だったとは一言も言っていないもの。
「なんだろーね、俺……。サキにやりたくなかったのかもな。少しだけ悔しかったし、サキを応援しようとも思っていたけど、キミみたいな女の子は珍しかったしな。どういう反応するのか、ちょっと気になってた」
 気がつくと、水瀬先輩は見たこともないほど真顔で、どこも偽っていない声色だった。
「……最低ですね」
「自分でもそう思う。打ち明けたからには、俺は桃歌に何でも償うよ」
 私が、一番辛かったのは。
 彼が私のことを弄んでたんじゃないかってこと。私は他の女の子と全く変わらないんじゃないということ。……でも、これらは、ほとんど否定された。
 私に水瀬先輩を許す義務はなくって。だけど、私は彼のことが嫌いじゃないから、すっきりしてまたいつものように話し合いたかった。
「さっきのは……。水瀬先輩は、好きな子としかキスしたことないってこと……ですよね」
「あぁ。――何? 桃歌、サキだけじゃなくて俺の愛情も欲しいの?」
 いきなりふざけだした彼にちょっと怒りを覚えて睨みつけると、笑って誤魔化した。
「――甘えてもいいですか? ……忘れたいんです。重たいあの日のファーストキスも、水瀬先輩が他の子とキスしてた場面も」
 何を言っているのかわからなくって。私は、水瀬先輩といるとき、ときたま、こんな風にサキ先輩に感じるのとは違うドキドキを感じる。胸が、苦しい。
「……機嫌直してくれたってコト?」
「わ、たし……。正直に言うとあの時は、先輩に期待してました。だって、初めてのことだったから……」
 こういう言葉で弁解をしたら、彼の性格なら、どんな状況でも慰めてくれるって半分くらいはわかってた。だけど、ちゃんと彼は私の頭を撫でて優しく笑った。
「わかったわかった。桃歌が素直に全部言ってくれたの嬉しかった。俺も……なんだ、その。余裕ありげな演技で困らせて、ゴメンね」
「え……?」
 演、技。確かに、そういえば先ほどの話だと、あの時の彼の態度とは矛盾するようにも思える。
 文化祭の演劇でもとんでもない演技力を見せ付けられたし、彼の冗談はたまに冗談とは思えないこともある。だけど……。
「そ、演技。バレてなかったからあんま言いたくないけど、よく演技で誤魔化してるから、そこんトコ、気をつけてね」
「え、えええ……」
 ……ん? ということは、演技が余裕ありげなら、本当は余裕がなかったの……?
「俺な、たまーに本気でキミをどうにかしたくなるんだよね。どうしてか、ね」
 そういう風に言う水瀬先輩は、なんだか……。穏やかで、子供を見守るようなまなざし。よく見ると、頬が少し赤いような――。
「みなまで言うなよ。……わかってるから。俺、他の奴らと一緒でさ、桃歌にちょっと惚れちまった。――キミが良ければ、さ。あの時のことなんて全部忘れるくらい、今日は楽しませてあげるから」
「え……」
 私も、多分真っ赤だった。だって……一番ありえない人に言われてしまった。
 水瀬先輩、最初の頃、一番私に冷たかったのに。
「からかったとき、桃歌が赤くなって怒るのを見るのが楽しいんだよね。余裕ないクセに、必死に色々考えてどうにかしようとするのが、天敵につかまった時のウサギみたいでさ。……ま、そんなワケで。今俺はサキに立ち向かおうとは思えないけど、かなり桃歌の見方だぜ? だから、嫌なヤツにつかまったりなんかしないよーにレクチャーする。OK?」
 少しだけの間をおいて、私はゆっくりと頷いた。なんだって……私はドキドキしてたから。
「まあそんなワケで、ココはケーキ屋だ。とりあえず何か食べようか」

「ふふふっ」
 おいしいケーキにおいしい紅茶、そして水瀬先輩とのしがらみがほとんどなくなったことによって、私は笑みを隠せない気分だった。
「変な顔。ニヤけてんぞ」
 右手はしっかり指と指を絡めてつないでいる。さっきまで何を考えているのか全然わからなくて、甘えすぎても申し訳ないと思っていたのだけれど、私は彼のことが少しわかったような気がした。
 言葉は素直だけど、ちょっとぶっきらぼうなのは他の人と変わらない。
「本心じゃないってわかってるから、傷つきませんよ?」
「参ったな……。桃歌、機嫌が良いか悪いと、かなり悪女になるよな」
 呆れながらも微笑む彼は、ちょっと前までの水瀬先輩とは違って見えた。
「……水瀬先輩ってホントは、全然軽い人なんかじゃないですよね」
「どーだろうね。ま、女の子は大事にするよ? 師匠の教えだからな」
 ううん。はぐらかされてる。だけど彼はまたちょっとずつ自分のことを口にしたりもする。
「師匠ってなんなんですか?」
「俺の過去、気になっちゃう? あんま話したくないから話さないけどね」
 いつもの飄々とした態度に戻ってしまったけれど、どことなく彼もいつもより機嫌が良さそうに見えた。
「それより、あそこで何かやってるのか?」
 水瀬先輩の指す方向を見ると、交差点の脇の広場に一際人が集まっていた。
「わっ……」
 やはり人の注目を集めるその方向に人が流れていて、背の高くない私はすり抜けようとする人につられて向こうへ流されそうになった。
 しかし、ぐっと強い力で腕を引かれて、柔らかいコートにボフ、と当たった。
「危ない危ない。……なんだろうな?」
 水瀬先輩には何てこともないのかもしれなかったけれど、引き寄せて守ってくれたことにドキドキした。しかも、今の状況は、私の背中まで彼が腕を回して、抱きとめられている体勢で。
「……ん? あれ」
 真っ赤な顔を見られないように努力したけれど、彼に額をすっと押されて顔を上げると、きょとんとしている彼と目が合ってしまった。
 途端に口端が弧を描き、目が細められた。
「ホント、面白いな。……今、何考えてる?」
 水瀬先輩には、こういうとき私が脳みそフル回転でどうでも良い事を考えているのがバレているんだった。
「み、水瀬先輩の、コト……」
 素直に言ってから後悔した。にやけていた彼が、もっと意地悪そうに笑ったから。
「今の台詞、サキが聞いたら、俺の命が危ないな。ま、サキと歩いててもどうせ部活のこととかも考えてるんだろ。――桃歌って案外、頭は回るよな。他の子みたいに目の前のコトでいっぱいいっぱいにならないから、なんか難しい」
「十分にいっぱいいっぱいですよっ」
 彼の言葉一つ一つが気になってしまうほどには。別に関係ないけど、今まで水瀬先輩がどんな子と付き合ってたのか、とか……。
「ふーん……? で、あれ、なんなんだろうね」
 疑いの眼差し、というより、多分わかっててからかってるんだろうけど、彼はそんな態度をとって、しかし私を抱きしめたまま、再度先ほど指差した方向に向いた。
 人ごみに隠れてて私には全然何も見えなかったけれど、彼は何か見えているようで、口を結んで目を細めた。
「んー……こんな日に、なんか撮影してるっぽい。こんなに人集まってちゃ、迷惑だろーに」
 認識した途端、興味をなくしたように声のトーンを落とした。
 そして、私も少し向こうを見ようと努力していると、ふと彼が呟きを落とした。
「……桃歌ってテレビ見る?」
「えーっと……あんまり」
 正直に言うと、家では何もしないでぼーっとしている方だった。勿論、部活や勉強のことはそれなりにこなしてから、だが。
「そっか。俺、実は子役やってたんだよ」
「え?」
 唐突な問いに、唐突な話題だったが、彼から、こういう風に意外な過去とかを話してくれるのは初めてだったように思った。
「ちょっとだけだけどね。やりたいコトできたからやめちゃった」
 茶目っ気を含ませて、彼はウインクをした。
 さっき言ってたみたいに……演技しちゃうクセとか、そういうところから始まってたんだろうか。
「やりたいコトって、やっぱり……」
「――ダンスは高校からだ。中学生の頃までは歌手になりたかった」
 急に、彼がとても子供みたいに見えた。悪い意味じゃなくって、夢見る少年のような。今まで、そういうところは全然見せていなかったから。
 そっか。だから歌があんなに上手なんだ。
「でももう、諦めたっていうか、ホントに音楽好きな人には勝てないなーって思ったら、趣味だってコトに気がついてさ。今はもう何にもない」
 その言葉にウソはなさそうだったのだけれど、ちょっとだけ心に引っかかるところがあった。
 後夜祭で、歌とダンスでステージに上ったのは、まだやりたいって気持ちがあったからじゃないのかな?
「それでも、水瀬先輩は人前で何かするのが好きそうですよ」
「……そう見える? そっか。諦めきれてないのかもな」
 部活のときだってそうだった。パフォーマンスという点において、彼は一歩も引かないところがあった。
 珍しく、少しだけ悩んでいる感じの表情を見せた水瀬先輩は、やっと私の手を引いて、人ごみから抜けた。
「ま、そーいうの目指したくなっていうワケじゃないんだけどさ。なんというか、そんなに強く決意できないんだよね」
 私から見れば、彼は割と何でもそつなくこなすし、世渡りも上手だから、今からでも芸能人にはなれそうなものなんだけれど。
「私は、何か、行動を起こしてからホントの気持ちになるってこともあると思います」
 言ってから、気がついた。サキ先輩と私の関係と……同じ?
 水瀬先輩もそのことに気がついたのか、私を見て笑った。
「……そうだな。それを言ったのは俺、だしな。モヤモヤしてるだけ、時間は無駄だってもんだ」
 自嘲なのか、私を少しだけ揶揄しているのか、しっかり目を合わせておかしそうに微笑んでいた。
「そんなワケで、今、俺が桃歌と一緒にいるのに、自分のコトばっか話してるのもあんま効率の良い話じゃないな! さて、寒いしどっか入ろうか」
 さっき演技がどうとか話していたのがウソみたいに、彼は素直に気持ちを表現しているように見えた。
 最初に会ったときよりも、ずっと、彼は私に心を許してくれている気がする。
 今思えば、一番自分を保護している殻が堅いのは水瀬先輩だったかもしれない。
「さっきの続き。サキにアプローチするなら、手だけじゃなくてもっと近づいてもいいと思うぜ。もーアイツはさらにゾッコンだから、何やっても許されそうだし」
 そう言って腕ごと絡めてきたのは水瀬先輩で、それこそ許されないんじゃないか、なんて思った。
 でも私は、彼が私のために行動してくれてるって確信が持てたから――。
 ホントは心臓に悪いからちょっと嫌だけど、完全に拒むことをできそうになかった。
「そーいえば、海の帰りに桃歌、俺に引っついてきたよな?」
「……へっ!? ――そ、そういえば」
 あのときはちょっとばかりはしゃいで興奮してたから、その……微妙に我を忘れていた、というか。
「あーゆーの、あざとく覚えてる俺みたいなのに気をつけなよ。……ほら、梢とかは多分自分がしたことしか覚えてないから大丈夫だろうし」
 どういう基準の判断なのだろうか。それに、梢君はきっと私がした酷いことを忘れているということはないだろう。
「本人が忘れた場合、切り札になり得るんだよ。お前、あの時こんなことしただろーとか。話に脚色したってバレないし。責任を追及するワケじゃなくってさ、一線を無理やり越えさせるというか」
「は、はぁ」
 ……だから、私はあなたと腕を組んでいいことにはなりませんよ。
「そ。だからさっきの俺の過去の話とかさ……。秘密にしてるコト、あんまり興味本位で聞くと、戻れなくなるよ?」
 水瀬先輩は、ミステリアスなキャラを演じているわけではないけれど、何だかんだ色々なことを秘密にする。
 よく、それっぽいウソをついて本当のことを隠したりするし、はぐらかすし。
 でもそれってもしかしたら、その責任の重さを背負わせないようにするための気遣いなのかな、とも思った。
 まだ彼についてわからないことは物凄く多いけれど、きっと、水瀬先輩は、上手く一人で様々な人を守っているのだと思った。
「……ま、桃歌もたまに使うよな、この手」
「あは、は」
 思い当たる節がないワケではなかった。好意を伝えられたことをいいことに、サキ先輩とのケンカに利用したりするし……。
「それでいいんだよ。サキのことはもっと困らせてやれ。アイツはホントにヘタレだから、もっと強くなんないといけねぇと俺は思うよ」
 水瀬先輩式の恋の駆け引き、か……。
 余裕たっぷりの視線を向けて、彼は私の腕を引いた。
 彼とのデートで得られることは、別に、ワンステップ上の体験というだけではなさそうだった。


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