Blossom - X'mas 2011 隼「兄じゃなくて」

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「――ひとまず、安心だな」
「は、ははは……」
 一本目で一人勝ちを決め込んだ隼先輩は、そういう風に言って私に笑いかけた。
「ま、理性が効くヤツトップスリーには入ってるから、安全ではあるかもな? 隼なんかとデートして楽しいかどうかはともかくとして」
 水瀬先輩の皮肉に、無言の睨みで返した彼を見て、私は少しだけ先行きが不安になった。
 しかし、サキ先輩は安心していたみたいだし、それなりに良かったのかな……。
「お前、まさか本当に俺と一緒じゃつまらないとか思ってるわけじゃないだろうな?」
「……そんなこと」
 声色はいつもと同じに聞こえたのに、視線を送った先の隼先輩は、すねたように眉を潜めていた。
「妹たちのワガママ聞いて過ごしてんだ、黙っててもやりたい事、当ててやるよ」
 得意気に口端を上げてそう言った隼先輩は、なんだか彼らしくもなかった。しかし、少しだけ感じた子供のような無邪気さに、私は心の中で笑った。


「おはようございます! あ……」
「おはよ。ん? そんなに珍しいか?」
 私よりも先に待ち合わせ場所に来ていた隼先輩は、いつもとは全然違う服装に、髪型に、雰囲気で、私は驚いた。
 いつも真ん中で分けているサラサラストレートな黒髪を少し外側にハネさせて、オシャレな感じの髪型を作っていて、服装もいつもよりカジュアルな感じで、なんだか……。
「隼先輩じゃないみたい、です」
「はは。そうか、最近こういう風に出かけてなかったからな。ま、本命のために気合い入れてくるだろう桃歌に対して、いつものじゃ物足りないし、失礼だろう?」
 その通りに気合いの入っていた私は、いつものポニーテールをゆるく巻いて、手慣れない化粧を少ししていた。
「化粧なんてしてるの初めて見たが……。なかなか上手いじゃないか」
 私の顔を真正面から見つめて、隼先輩は目を細めた。
「ほとんど初めてみたいなものですよ。――今度、教えてくださいね?」
 顔を合わせて話すことは少なくないと言えど、いつも他の先輩がいるから、ここまで隼先輩に直視されて話すことは少なくて。濡れた真っ黒の、犬のそれみたいな目で見つめられると、少しどきっとする。
「あぁ。だが――」
 頭ひとつ低いところにある私の頭に、ぽんと手が置かれる。
 不思議に思って首を傾げると、真っ直ぐに目を見つめられた。
「サキは、今のままの桃歌でも満足しているぞ?」
 穏やかに、しかし核心をつつくような彼の言葉は、私の頭の中で、色々な言葉や、私なりの考えと混ざって、一瞬のうちに消化された。
 それは、だってもう、出会ってから何度も考えていたことで。
「でも、私」
 今日だけは、隼先輩に諭されてばかりじゃないもん。
 頭の上からどかそうと触れた彼の手は、氷のように冷たくって、私は思わずそのまま握り締めた。
「もっともっと、自分を魅力的にしたいです」
 私の、温かいとはいえないくらいの手の温度が、冷たい彼の手の温度と分け合って、同じくらいになった。
 隼先輩は特に何も反応を見せず、すぐにさっと手を引っ込めて、いつもの目で私を見下ろした。
「そうだな」
 何かを気にするように、彼は私に背を向けて、ポケットに手を突っ込んだ。
 そしてそのまま、首だけこちらに向けた。
「行きたいところとかあるか? なかったら計画通り進めるが」
「今のところありませんよ、隼先輩の思うようにどうぞ」
 あの日、任せてくれ、というような態度だったから、彼はもう前を向いてしまっていたけれど、その背中に笑って声をかけた。
 なんだか、最初は少し誇らしげだったのに、今は何か押し殺したようにいつもの冷静な隼先輩に戻ってしまった。
「了解。行くぞ」
 また、もう一度私を振り返って歩き出した。
 不思議な感覚だった。実際のところ、あまり彼と二人だけでいることは、部活中でもなかったから。
「隼先輩、どうしていつもこんな感じじゃないんですか?」
 やはりカップルの多い、商店街の人ごみの中で、私は唯一頼りにできる彼にそう話しかけた。
「んー……。どう説明しようか。ま、あまりチャラく見られたくないっていうのもあるかな」
 前を向いた横顔はそのままに、視線をちらと向けながら答えてくれる。
「……そうなんですか、意外です」
 誰にどう思われようと気にしないタイプだと思っていた。自分は自分なんだから、みたいな。
「なんでだ? 俺は不良に憧れるようなどーしようもない女とか、不良な女とはあまり関わりたくないぞ」
 少し的外れな解釈と共に、隼先輩は珍しく間の抜けた表情を見せた。
「そうじゃなくって。周りの人がどう思ってようと、カンケーない、みたいに思ってるのかなーと思ってたんです」
 どうしても、いつも上から小突かれたり、からかわれたりしているから、こうやって対等に話し合えるのが、少し嬉しいなぁ、と思った。
 隼先輩は安心したように頷いて少し上の方を見上げた。
「あぁ、そういうコトか。……気にしてるよ。実質、ウチの中で俺が一番目立つ立場にある。それにまぁ、よく睨んでるとか言われるからな」
 確かに、最初に目が合ったときは、睨まれたと思ってびくびくしてしまったりもした。
 しかし、今、隼先輩がどんなに険しい顔をしていようと、怒っているのか、辛いのか、本当に睨んでいるのか、一目でわかる。
 ……やっぱり、もう半年以上も見てるからかな。
「でも、やっぱり今日みたいな方がかっこいいです。いつもかっこいいけど、今日はもっと」
 軽い愚痴のような言い方で漏らした彼の細っぽい横顔を見ながら、そう言った。
「そーゆーコトはサキに言ってやれ」
 こちらも見ないで、隼先輩はまた、冷たいであろうその左手を私の頭に乗せた。
「ウソじゃないですよ?」
「……わかってるよ」
 その答えを聞いたとき、いつもより冷たい彼の態度が、どうしてなのか、少しわかったような気がした。その瞳の奥の困ったような色を見つけたから。
「隼先輩、今日はデートですよっ」
 すっかり温めることを忘れて、冷えてしまった自分の手で、彼の手をもう一度握った。
 少し驚いたように目配せをした隼先輩は、呆れた顔で肩をすくめた。
「だから――」
「たまにはいいじゃん、なんて気分でやってるワケじゃないんです。隼先輩が素敵だから、一緒に歩きたいって、それじゃダメですか?」
 驚くでもなく、硬直した彼は、十秒くらいの間、まばたきもせず、私と目を合わせていた。
「困ったもんだ」
 いつもくるくるとまわる彼の舌が、少しつまづいたみたいに、上手く言葉が出ていなくて。
「あまりサキや――俺たちを惑わせないでくれ」
 しっかり手を握り直してくれた隼先輩は、その女性のように白い顔を少しだけ赤くしているように見えた。
「サキ先輩はあんなこと言ってましたけど……。ヘンなコトしなきゃ、私はいい、ですよ」
「ま、危ないのは梢とか……くらいなモンだろ。自分で安全っつったって信用ならないか?」
 すっかりいつもの調子に戻った隼先輩の言葉に、私は顔を上げると、彼は信じられないくらい陽気に笑っていた。

「すっごい大きなツリーですねっ」
 連れられて来た大きなデパートで、吹き抜け状になっている中心部を何階にもわたっている大きなツリーが飾っていた。
「ああ、すごいな」
 隼先輩は、あの後吹っ切れたのか、肩の力を抜いて、いつもよりもずっと優しく笑っていた。
「あっち行きましょっ」
 ワクワクしてきた私は、隼先輩の手を引いて、スキップ気味で進んだ。

「たまにはいいですねっ。思いっきりウインドウショッピングっていうのも」
「俺ははしゃぐお前を見てるのが楽しかったよ」
「なんですかぁー」
 もうとっくに手は離してしまったけれど、着飾った男女が二人。周りから見れば、恋人にしか、見えない……よね?
「ウチの妹たちと買い物行ってもつまらないからな。如何せん二人で以心伝心しすぎて、ほとんど無言だ」
「じゃあ私、妹みたいなものだったことですか? 隼先輩がお兄ちゃん――」
 お兄ちゃん、と言った途端に、彼は笑い出した。
「これ以上、手の焼ける妹はいらないな」
 よほどおかしかったのか、笑いを堪えながら見下ろしてくる隼先輩を、私は睨み返した。
「相変わらず、お前に睨まれてもかわいいと思うだけだな」
「……え?」
 今……今、あの隼先輩が……。
「今、あの……」
「そのマヌケた顔もかわいいぞ」
 全然彼のイメージなんかじゃなくて、ええと、甘い……に分類される感じのキーワードを発して、優しく、ちょっと意地悪っぽく笑う隼先輩は、まさに別人で。
「そんなに驚くことか? 今まで、サキが少なからず影響を受けるのはわかっていたから、言わなかっただけなんだがな」
 急に、隼先輩が男らしく見えて、といいますか、ええと、ともかく私の心拍数が急激な上昇を始めて、今度は私が硬直する番だった。
 そんな私の心情を知ってか知らずか、彼は手を差し伸べて、紳士的に微笑んだ。
「さ、桃歌。少し休もうか? 連れて行きたいカフェがあるんだ。お前、ココア好きだろう?」
「ココア……。はい!」
 今は胃袋だけじゃなくて、心もしっかりつかまれてしまっています。

「おい、桃歌。さっきからどうした」
「……へっ!? な、なんでもないですよ」
「何かある、というか、何か喋れよ……」
 デパートを出、隣に並んで歩く隼先輩を、どうしてかすごく意識してしまって、落ち着くことができなかった。
 特別、何か変わったというわけでもないのに、先ほどの彼の態度が、衝撃的で。
「お前さあ、部員のほとんどに尋常じゃないレベルで好かれてることくらい、わかってるだろ」
「それは……薄々」
 合宿の時に和真君に言われて、初めて考えたことだった。確かにヒップホップ部の部員たちは、誰しもに優しいワケじゃない人もいるけど、みんな私には優しくしてくれる。
 でも、私は、みんなの気持ちには応えられないし……。
「それでも桃歌の相手がサキであることに不満を抱いているヤツはいないんだ。だから、お前とデートしたいだとか、そういうコトを思うのはこっちのエゴだ。応えられないと思ってるかもしれないが、みんな、十分満足だ」
 物わかりの悪い、泣き虫な子供をなだめるように、彼は淡々と述べた。
 そうだ、そうなんだ。私は涙を流すことさえせずとも、「でも」を繰り返して、相手に答えを探してもらう、子供なんだ。
「私……。サキ先輩の気持ちに一番応えたいって思うんですけど、でも部員のみんなが好いてくれるなら、みんなの気持ちにも応えたいんです。サキ先輩が一番なのは、やっぱり私自身がサキ先輩を一番好きたいって思ってるからで、けど、みんなにとって、私は――」
 一つでも隠したら、その「what」を問うことになるから。私は、全て思っていることを口に出そうとした。
 だけど、その問いを最後まで言うことはできなかった。
『私は、どのくらいの存在なんですか?』
 答えを聞いたら、揺らいでしまう、その一つの問い。聞くことなんてできなかった。薄々、そう、薄々気づいているから。
「お前の言いたいコトはわかる。だから黙って聞け」
 口をつぐんでしまった私に助け船を出して、彼は自らそこに乗り込んだ。導くは、安全な岸まで。頼りがいのあるおおらかで優しい彼らしい、ぶっきらぼうな言葉だった。
「まずひとつ。たくさんやりたいコトがあるなら、その中で優先順位があるのは当たり前で、そしてもしも切り捨てなければならないことがあるなら、優先順位の低いものから切り捨てるだろう。お前が直感でやりたいことをやればいい。二つ目。さっきも言った通り、お前について一人で勝手に悩んでるヤツもいるが、お前がどうであろうと、そいつらは不満はない。俺がこうして隣にいるからといって、サキのことを考えるなとは言わないだろう。三つ目。桃歌の存在自体がみんなにとって重要なんだ。……だから。お前が一番好きなサキのことを考えてくれ。桃歌が自分のやりたいことを優先できないなら、サキのことを考えてくれ」
 すたすたと歩きながらたくさんのことを、これまたすたすたと早歩きで口にしていく彼に、置いていかれないようにする。そのくらい、何を思ってか、私のことなんて気にしてないみたいな歩きだった。
 だけど……彼の言葉は、私を本当に優先してくれるもので。もし、隼先輩の言うことが部員みんなに共通するならば、私がこんな風に悩んでいるのも、みんなにとって良いことではないだろう。
「こんなもんで納得できたか? お前がサキを好きで、サキがお前を好きであるかぎり、少なくとも俺はこの考えを変えない」
 隼先輩が立ち止まって振り返った背後は、小さなカフェの軒先だった。
「……はい」
 彼は色々なことを、ちゃんと理解して上手に話すけれど、先ほどからの話の内容はずっと、とにかく私を安心させて、説得しようとするようなものだった。
「隼先輩、ありがとうございますっ」
 情けない自分も何もかも笑えてきて、笑顔を向けると、彼もまた満足そうに笑った。
 隼先輩が再度振り返ってドアを引くと、ドアについたベルが、かわいらしい音を立てた。
「おや。いらっしゃい……彼女さん、じゃないか」
 入ってすぐ、狭い店内のカウンターの向こうに座っている青年が、隼先輩に声をかけた。
 ――車椅子?
「サキの彼女だよ」
 さっぱりとして印象の彼は、柔らかな笑みを浮かべて、納得したように頷いた。
「なるほどね。……それで?」
「オレはコーヒーで。こいつにはココアを」
「かしこまりましたっと」
 少し水瀬先輩と似たような、飄々とした感じ、けれど優しい雰囲気と丁寧な仕草に、紳士的な印象も受ける。
 最初に違和感を覚えたとおり、これまた狭いカウンターの向こうで彼は車椅子を少しだけ動かしながら移動をしていた。
 私の荷物やらを受け取って席を促す隼先輩に従いながら、その珍しい光景に釘付けになった。
 てきぱきと動く手先を見ていると、隼先輩が料理を作っているときのことを思い出す。
「そんな見られても、照れはしないけど、少し申し訳なくなるな、サキに。……どうぞ、お嬢さん」
 大人びた、というか大人の微笑みでカップを差し出した彼に、どきどきしてしまった。
 初めて直視したその瞳は、甘い色を持っていた。
 あたたかいカップの湯気ごしに、彼の顔を隅から隅まで見つめてしまう。
「……それ、飲み物だからさ。飲んでほしいな」
「へ? あ、は、はい」
 見とれてたのかなと思うと恥ずかしくて、手元に俯いて息を吹きかける。
「あ……おいしい」
 カラカラな身体に、温かくて甘いココアがじんわりとしみる。
 思わず呟いた感想に、カウンターの向こうの彼が微笑んだ。
「どうも。――それで、隼。こんな日に何か相談でも?」
「あぁ。そこのお姫サマが、ちょっとね」
 隼先輩にぴったりな真っ黒のコーヒーのカップを指で遊びながら、彼は私を向いた。
「え?」
 先ほど解決したような気がしたのだけれど、まだ……。
「お嬢さん、サキのこと、好きなんでしょ?」
「……はい」
 彼がサキ先輩のことをどれだけ知っているかわからなかったけれど、隼先輩と親しそうにしているところを見ると、おそらくそれなりには親密な関係なのだろう。
「じゃ、隼のことは好き?」
 少しばかり衝撃的な問いに、私は後夜祭でのことを思い出した。
『……嬉しかったよ』
 様々な理由もあれど、私は、隼先輩を好き、と言った。そして、その理由の全てを彼に打ち明けてはいない。
「……はい」
 おずおずと頷くと、彼はにっこりと笑った。
「その迷いこそが、愛情の差ってものだよ。形式的なものだろうと、きっとキミの行動は全て、今みたいにサキを優先するだろう」
「あ……」
 そっか。そうだ。私はサキ先輩への想いには、迷わなかった。隼先輩に対しては、少なからず他のことを考えて、遮られてしまった。
「そういうワケだ。それでもって、お前はそれでいい」
 コーヒーを飲み干した隼先輩は、安心したように温かく笑った。
「この後、どうする? 行きたいところとかあるか?」
「えっと……。あの、プレゼント、一緒に選んでもらおうかなぁと思って」
 彼はおかわりを受け取りながら、了解と頷いた。
 ちょうどいい温かさになったココアは、すっきりした心に、また少し違うようにしみこんでいった。

「うーん……。隼先輩なら、どんなものをもらったら嬉しいですか?」
「俺は……。俺は相手が気に入ったものなら、何でも。だが、サキはわかりやすい方が好きだろうな」
 こじゃれたアクセサリーショップの、なんとも言えない空気に緊張しながら、こっそりと隼先輩に声をかける。
「わかりやすいって……」
「ペアものとか。あぁ、勿論お前の場合は、な」
 少し奮発していいものを買おうと、たくさん貯金をしていたから、常識の範囲内なら大体買えるくらいの額は持っている。
「なるほど」
 目の前にずらりと並ぶネックレスを眺める。思わず目を細めて見たくなるくらいにキラキラと輝いている。
 二つで一つになる、対になる、ほとんど同じデザイン……自分で買ったことももらったこともないから、どんなものがいいのか全く見当もつかない。
「ペアは、さ……。二つともあげて、一つサキから贈ってもらうようにするとか」
「そ、そうですね……」
 そんなこと、私にできるだろうか……。
「それ、気に入ったならいいんじゃないか?」
 つい手にとってじっと見つめていた一つ。すごくピンときて、運命的な出会いみたいな感覚を覚えた。
「いいと思いますか?」
「俺個人の感覚としてはいいと思う。それで桃歌が気に入ったならいいじゃないか」
 頷いて、緊張でカクカクしながらレジへ向かう。
 これで、もう全部安心……かな。

「あと三十分で抜けられるそうです」
「意外と早かったな」
 日も落ち始め、いよいよ恋人たちの時間、といった雰囲気になりつつある商店街をぶらぶらと歩いていたら、サキ先輩からメールが届いた。
 サンタ服の凪咲さんの写真を添付してくれて、とってもかわいい彼女に、これは売れるなぁ、と思ったりして。
「じゃ、そろそろサキのとこ行くか」
「はい。……隼先輩、今日はありがとうございました」
 こっそり買っておいたお礼を、横を歩く彼のコートにそっと押し付けた。
 少しの間気がつかなかった彼は、私の手元と顔を何度か見て、また呆れたように笑った。
「……全く。そういうのいいんだって。――俺はもう一回礼をしなければならなくなるだろう?」
 そして、驚いたことに、小包を持っていた私の手をそっとつかんで、肩に腕をまわした。
「サキには秘密な」
 そう耳元に囁いて、顔を近づけてきた。
「あの……っ」
 熱い吐息がくすぐったくて、それ以前に、良いのか悪いのか判断しかねて、私は顔を背けようとした。
 しかし、ぱっと目が合った彼の深い深い黒の瞳に吸い込まれるようにして、動くことができなくなってしまった。
 頬に軽く触れて、隼先輩は身を離した。
「はは。……俺には無理だな」
「えっと……はい?」
 どきどきがおさまらなくて、私は真っ赤な顔のまま首を傾げた。
「お前とサキとの間に割って入ろうだなんて、考えられもしないってコト。――ありがとな。今日は俺も楽しかった」
 綺麗で、儚い笑み。見下すようなものじゃなく、色々な辛みをもくるんだ儚い笑み。
 彼を知らない人は、あざとい、とも言うかもしれない。こんな場面で、そんな表情を浮かべるなんて。
 だけど、彼にとって、普段のひんやりとした笑みと、今の笑みの違いは物凄く大きいもので……きっと、それを私に見せてくれるということは、彼は私に心を許してくれているってことで。
 なんだか、ちょっと動物みたいだな、なんて思った。何でも器用にこなすし、間違ったことは言わないし、とても完璧に見えるのに、そういうところで少しかわいらしさも感じる。
 ……こんな風に見ちゃう私も、彼の妹っていう立場にはなれないなって、思う。


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