Blossom - Valentine short

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「あ……」
 忘れかけていた。こんなことを言ったら日本中の女の子達に白い目で見られてしまうかもしれない。
 調理室の前を通りかかったときに目に入った、『バレンタイン』の文字。
 追い出しコンパの公演の準備で忙しくて、全く頭の中を素通りしていた大切……であろうイベント。
 そういえば、女子ダンス部の方はバレンタイン公演もやるんだった。
 最近どことなく男子ヒップホップ部内の雰囲気が変だと思ったのは、これのせいだろう。
 サキ先輩、渡さないとへこんじゃうだろうなぁ……。
 一度も本命だとか、異性に渡したことがない。女子との友チョコですら、最近は微妙な感じになっているくらいで。
 あの四人がバレンタインでどれだけ大変なことになるかは、容易に想像ができた。
 それでも、きっと彼らは私一人のチョコを求めてくるだろう。
 ……考えておかなきゃなあ。
「いたいた! 桃ちゃん、先輩達探してたよ?」
 半ば放心状態でぼーっと廊下を歩いていた私に声をかけたのは、木田 梢君だった。
 入学当時は割と落ち着いていた外見も、今じゃあもうオシャレ君の域にまで達していた。
「え? 私、ちょっと遅れるって言っておいたはずなんだけど……」
 授業のプリントを提出しなければならない用があった。
 梢君は、あれ?と言って、頭をかいた。
「じゃあ、何かあったのかな……。とりあえず、できるなら早く行った方がいいかも」
「そっか。うん、ありがと」
 わざわざ、きっと自分から私を探しに来てくれただろう梢君に感謝しなければならない。
「あ、そのプリント出しとこうか? 化学のやつでしょ」
「いいの? ありがと」
 そう言って爽やかな笑顔を見せて、梢君は走り去って行った。

 昇降口に急いで降りると、先輩たち四人の他に、一人、小さな女の子が立っていた。
「信じません! あたしの目の前でキスしてくれるまで!」
 涙声でそう叫んだ彼女は、赤い目と頬でサキ先輩を力強く見つめていた。
 これは……えっと……。修羅場というやつだろうか。いや、ちょっと違うかもしれない。
 とにかく何だかすごーく行きづらい雰囲気だったのを頑張って振り切って、さっきの台詞は聞かなかったことにして先輩たちの方に駆け寄った。
「すいません! 何か、用でもありましたか?」
 平静を装いつつ、目の前の女の子を見て見ぬふりをしながら声をかけると、サキ先輩が慌てて私の手を掴んだ。
 焦ったような半分苦笑いの顔を近づけて、そっと囁いた。
「ゴメン、ちょっと色々あって」
 私の体を力強く引き付けて、唇をそっと触れさせた。
 本当に軽い、軽いもの。
 近くで悲鳴が聞こえたと思ってびっくりして顔を上げると、女の子がその場に泣き崩れていた。
 ごめんなさい……。えっと、色々と。
「そういうことだから、ごめんね」
 サキ先輩も困ったようにそう言った。
 しかし、女の子は聞こえていないかのように、うそ、と呟きながら泣き続けるだけだった。
 遂に水瀬先輩が傍に寄ってそっと女の子の頭に手を置いた。
「ったく、泣かしてんじゃねぇよ。……大丈夫? 元気出して」
 驚くほどに優しい声と笑顔でそう言った。
 それでも泣き止まない彼女に、水瀬先輩はポケットから何かを出して差し出した。
「レモンタブレット……食べる?」
 少々場違いのように思えたその言葉で、女の子は顔を少し上げて不思議そうに首をかしげた。
 水瀬先輩はいつものへらっとした調子を孕んだ笑顔で無理やりタブレットを彼女の手のひらに押し込んだ。
「マナちゃん、だよね……。俺に、誕生日プレゼントくれたでしょ」
 彼の言葉に、女の子ははっとして顔をしっかり上げた。
「どうして……わかったんですか?」
 本当に不思議そうに問う彼女に、水瀬先輩はウインクして唇を一舐めした。
「紙袋、かわいかったから、もらう前に見ちゃってた」
 大きな目を更に見開いて少し嬉しそうに彼女は笑った。
 強く握り締めていた手の中のタブレットを優しく握りなおして、髪を整える。
「あの……あたし、最初は、芳花先輩のことが好きでした。でも、みんながダメって言うから、どんどん揺らいじゃって……」
 ふわふわしていて背も小さくてかわいい印象の彼女は、他のクラスだったから知らなかったけれど、すごく友達になりたくなった。
 彼女の言葉を聞いて、水瀬先輩は意味ありげに笑った。
「サキはわかった通りにヘタレだから、俺にしときなって」
 それって……。と、私が思ったのとは裏腹に、女の子にはその言葉の意味がよくわかっていないみたいだった。
「俺のこと……まだ好き?」
 私でもドキドキする、あの甘い声で恥ずかしげもなく問うた。
「……っはい! でも、あの……」
 たじろぐ彼女を尻目に、水瀬先輩はいきなり女の子を抱きしめた。
 小さく悲鳴が聞こえたが、それは嫌なものでは決してなかった。
「じゃ、そういうことだから……サキのことなんかで、泣いてんなよ」
 優しい声でそう言って、彼女の頭を優しくぽんぽんと叩いた。
 予想外の展開、というか、水瀬先輩の行動に唖然として辺りを見回すと、やはりサキ先輩と、その場にいた隼先輩、琴先輩もびっくりしていた。
 そもそも、どういうことが最初にあったのか、私はまだ知らなかった。
 こっそり隼先輩に何があったのか聞くと、サキ先輩にこの女の子が告白をしたが、彼女がいると言って断った。しかし信じなかった、ということらしい。
 でも、彼女は水瀬先輩のことが好きで……?
 何だかよくわからなくなってきたけれど、色々とあるのかなぁ、と割り切ることにした。

 その後、何だか気まずい雰囲気の中、水瀬先輩だけ彼女と一緒にしばらく話すようなので、他の先輩と四人で帰路についた。
「あ! ねぇねぇ、桃ちー、バレンタインちょーだいね!」
「え、あ、はい」
 なんとなくボーっとしながら、何を話すでもなく歩いていたとき、急に琴先輩が声を上げてそう言った。
 そっか……またもや忘れかけていたけれど、バレンタインか……。
「桃歌チャン」
 自分の世界にまた浸りかけていると、サキ先輩が私を呼んで笑った。
 その後は何も言わないまま、笑顔で見つめてきて……えーっと。
「さ、サキ先輩にも勿論渡しますからね!?」
 怖いというかそういう問題ではなく、それは大前提であろうに。
 琴先輩に先手をとられたのがそんなに悔しかったのか、機嫌がちょっと悪いときの常のように、変な調子だった。
 ホントに、何がいいかなぁ。
「そうだ……去年の経験から、当日の昼はもらいものの消化になりそうだから、覚悟しておけよ」
 隼先輩の言葉に、私は驚きながらも納得してしまった。
 だって、すごそうだもの……。
 漫画みたいにバレンタインにたくさんもらってる男子なんて見たことないけれど、先輩たちは確実にそうなるだろう。
「うん……考えておきますね、楽しみにしててください」
 何だか結構楽しみになってきた。色々と。

 先輩たちの人気は、私の予想を遥かに上回っていた。
 朝から先輩たちについていたが、昇降口に着くまででもう私はへとへとだった。私自身は特に何かしていたというわけでもないのだけれど、あまりの人の多さに気疲れしてしまった。
 中にはクラスの友達もいたし、とにかく一年生から三年生まで多種多様な女の子が次々と先輩たちを引き止めては渡して去って行く。
 何故か男子生徒もちょこちょこといた。その理由は後で知ることになるんだけれど。
「なんか……去年よりすごくないか……」
 テンションの高い琴先輩や水瀬先輩とは逆に、サキ先輩はもううんざりという感じだった。
 本当に『持ち切れない』チョコの山である。イケメンっていうのは怖いと思った。
 とにかく、引き止められすぎて時間が危うくなっていたので、私は先輩たちと別れた。

 昼休みになって中庭に行くと、先輩たちと、この間の女の子、そして……ぱらぱらと見知らぬ生徒。
「基山チャンきたきた。聞いてくれ! マナちゃんと付き合うことになった!」
 マナちゃん、というこの間の小さくてほわほわした女の子は恥ずかしそうににっこりと笑った。
「宮間 麻奈(みやま まな)です。よろしくね」
「あ、えっと、基山 桃歌です。こちらこそ」
 麻奈ちゃんは女の私から見てもとにかくかわいらしかった。
 高めの声も小さな顔も大きな瞳も。
 見とれる、とはちょっと違うけれど、彼女を見つめていると、ほわほわした気分になる。
 クラスは違ったし全然話したことがなかったけれど、少し打ち解けて少しずつ話をしていると、何だか辺りが騒がしくなってきた。
「はいはい、ちょっと待てって」
 何やら隼先輩が何か配っているみたいだった。
 当人は忙しそうなのでサキ先輩に聞いてみると、彼はああ、と言いながら頭をかいた。
「隼特製のチョコレートケーキ。去年、色々あって一部の先輩に配ってたんだけど、それが評判になっちゃったみたいなんだよ」
 お菓子作りもうまいのか……と思うと、何だかもうお手上げの気分だった。
 よく見ると、隼先輩のケーキをもらいに来てる人は、全員朝にチョコを渡しに来た人で、男子もいた。
 男子生徒は、このために渡したんだろうか……?
「桃ちー、サキ、水瀬とマナちゃん、隼忙しいし食べちゃおうぜー」
 生徒の列を見ていたら、琴先輩が元気よくそう言った。
 いつもお弁当を食べているレジャーシートの上にはいつもより小さな重箱と大量のラッピングされたチョコレート……。
 まさか、これ今全部食べるなんてことはしないよね……。
 後ろで見ていた麻奈ちゃんがうわぁ、とかわいい声を上げた。
「うし! 張り切っていこー!」
 水瀬先輩が急にそう言ってどかっと座り込んだ。
「はい、こっちね、基山チャンも含めて『皆さんで食べてください』って言われた方。それ以外は一応俺らが一口は食べないとな」
 そう言って私と麻奈ちゃんにいくつか手渡した。
 どれもこれもなんだかすごく凝っていて、私的な感想としては、本命かよ……というところだった。
 それでも『皆さんで食べてください』っていうのは、厚意なのか、捨てられるよりはマシと思っているのか。
 先輩たちは捨てたりはしないだろうに、ね。
「これサキの分。こっちは水瀬な」
 大きな紙袋に早くも一杯のチョコを見て、苦笑いしつつもサキ先輩も水瀬先輩も嬉しそうだった。
 バレンタインって、やっぱり男の人にとってはもらったら何でも嬉しいのかな。
 ちゃんと私も作ってきたけれど、正直自信なんてあるわけない。
 まずいものを作ったつもりはないけれど、突出しておいしいようなものではないし、個性もないし。
「桃歌ちゃん……どうしたの?」
 麻奈ちゃんが遠慮がちにチョコをつまみながら心配そうに声をかけてくれる。
 ついつい暗い顔でもしてしまったのかもしれない。
「あ、ううん、何でもないよ。ちょっとだけ、考え事」
 取り柄がないことが取り柄と言い張れればどれだけ楽なものか。
 今更後悔したって今から特技を作れるわけでもなしに。
「あのね……あたし、製菓部なんだ。でもね、別にお菓子作るのうまくないよ」
 麻奈ちゃんはちょっと恥ずかしそうに肩をすくめた。
「先輩たちがもらったチョコはどれもおいしいし……あたしも自信、ないんだ。でも、多分ね、味じゃないし、愛情もちょっと違うんだと思うの。形式的なものだとしても……あげることが一番重要なんじゃないかって」
 彼女の言葉が私の耳を通って脳に響く。
 そう、なのかな。
 自信を持っていかなきゃ、というのは、ずっと前にクリアしたはずの課題だった。
 だから、卑屈になる気はなかったけれど、半信半疑に近い自信で、もやもやしていた。
「あたしが……先輩にとってどれだけ特別かわからないけれど……あたしがね、先輩にタブレットもらったとき、すごく嬉しかったから、同じ気持ちならいいなって」
 あの時のレモンタブレットのこと。
 私は、何度も何度もサキ先輩にたくさんのものをもらっている。
 確かに、すごく嬉しかったと思う。
「……そうだね」
 悩むようなことでもなかったけれど、麻奈ちゃんのおかげで気にすることもなくなった。
 ふと水瀬先輩を見たら、彼の麻奈ちゃんを見つめる瞳はとても穏やかだった。

 放課後、私は内心とてもどきどきしていた。
 部活があるから、終わってから渡すことになるだろうけど、何度も言うようだが異性にチョコを渡すなんて初めてだったのだ。
 なんとなくこの後のことを考えてしまって、練習中も挙動不審になってしまう。
 最後の休憩に入ったとき、見計らったように教室のドアが開いた。
 おずおずと入ってきたのは、サキ先輩のお姉さんたちよりもずっと綺麗な、本当にこの世の人間とは思えないほどの美人だった。
 一度見たら忘れないほどの――。
「咲哉クン、」
 凛とした声で、彼女は彼を呼んだ。
 彼ははっとして振り返ると、私の方をちらっと見てから顔をしかめた。
「……お久しぶりです」
 三年生で、美人で、サキ先輩と交流が深い。
 もちろん、わかっている……。これまでに何度も、彼女の姿は見てきたから。
「私、咲哉クンにチョコ渡さなくちゃって思って。去年は結局渡せなかったから……」
 憂いを含んだ笑みも綺麗な彼女は、教室内の人間の視線を一点に受けていたのに、たじろぎもしなかった。
 それだけ見られ慣れているのだろうと、自然にそう思った。
 持っていた小さな紙袋をそっとサキ先輩に差し出すと、綺麗に笑った。
 きっと自然な笑顔なのだろうけれど、それは作り物のように綺麗すぎた。
 サキ先輩もそっとそれを受け取って、小さく感謝を述べた。
 異様な沈黙の中、彼女は急に私の方を向いてにっこりと笑った。
「ごめんね。諦めが悪くて……。咲哉クンの方は、もうすっかり私に気はないのに」
皮肉にも聞こえる言葉。しかし、悪気があるようには聞こえなかった。むしろ、自分を嘲笑う響きを 含んだ言葉に、身震いがした。
 私は、ひとつ首を横に振ることしかできなかった。
 怖い、とは少し違う。
 しかし、何事も入る余地のない何かが彼女の周りにはあったように思える。
 あの人が、万人を魅了しながらも、事件に巻き込まれて立場を失くした、いわば悲劇のヒロインだったなんて。
 私がこんなことを思うのはおこがましい。そう思って首を振った。
 サキ先輩が私のことを心配そうに見ていたけれど、見ないふりをした。
 別に、大丈夫だから。そう自分に言い聞かせて。

「お疲れ様でした」
 練習に集中して、なんとか先ほどの憂いを振り払った。
 そして、あれほどまで緊張して仕方なかった下校の時間になってしまったのだった。
 サキ先輩は、何も言っていないけれど、きっと期待してくれているだろう。
 私が自信を失くしていたら、何だかいけない気がする。
 コートを着てかばんを持ち、帰る支度の整ったサキ先輩におそるおそる駆け寄る。
「あの……っ」
 何故だかすごく鼓動が速くなった。
 自分から告白でもするような緊張。
 サキ先輩は優しく目で尋ね返す。
「私の……チョコ、です」
 うつむいてしまったが、そのまま箱を差し出す。
 受け取られないことに不安を覚えたが、次の瞬間には腕を引かれていた。
 いつもの、優しい抱擁だった。
「ごめんな、たくさん悩ませてたのに、無視しちゃって」
 そんなことを言ってくれるのが嬉しかった。普通は気にしなくていいことだ。
 花の香りに包まれて、そして彼の暖かさと、頭を撫でてくれる感触。
 それだけで、幸せだった。
「ありがとう。すっげぇ嬉しいから。安心して」
 たまに見せる、余裕のない言葉遣いと笑顔。
 それは、彼が素直に感情を表現するときの特徴だったから、私は本当に嬉しかった。
 腰をかがめて、顔を近づけてくる。
 彼の端整な目、鼻、口、全てを私の視界に独り占めしている。
 そう思うと少し照れくさいと共に、この上ない幸せを味わった。
 サキ先輩は茶目っ気を含ませて笑ってひとつウインクをすると、この間とは裏腹にしっかりと唇を 重ねてきた。
 キスというのは、何でもないように見えて、どうしてこうも甘いのだろう。
 近すぎてぼんやりとしてピントの合わない瞳で見るのを諦めて、そっと目を閉じる。
 それでも彼の笑顔が浮かんでくるのだから、恐ろしいものだと思った。
 少しの間そうしていて、どちらからなく離れた。
 私の右手をしっかりと握り締めて、サキ先輩は頷いた。
 もう先に昇降口に向かってしまった先輩たちを追いかけて、急ぎ足で階段を下りる。
 下で待っていた先輩たちは、三人とも呆れたようなにやけ顔を浮かべていて、私もサキ先輩も恥ずかしくなったものだった。
「あの、先輩たちにも」
 そう言ってそれぞれにチョコを渡すと、みんな笑ってありがとう、と言ってくれた。
 隼先輩にはその場でケーキを返してもらったけれど、本当においしくて、ついついテンションが上がって色々と聞いてしまった。
 いつもの調子でハグを仕掛けてくる琴先輩を(サキ先輩の視線が怖いので)上手に避けながら、水瀬 先輩と麻奈ちゃんの話をして笑った。
 ホワイトデーは、卒業式、つまり追い出しコンパの直前。
 ……覚えていてくれたらいいな、と思って、ひとりで笑った。


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