Blossom - 千種 琴吹history「追っかけ続けた背中」

--------------------

 中学二年生の夏、俺は最初の恋と、最初の失恋を経験した。



「ねえねえ千種君、朝斗先輩のアドレス教えてよお」
「ゴメン! それは止められてるんだよね〜」
 俺の出身中学校には、サキみたいなずば抜けたイケメンはいなくて、何故か、とは当時は思っていなかったんだけど、朝斗は物凄くモテていた。
 朝斗は今は俺と同じくらいだけど、成長するのが早くてちょっと背が高くて、俺の学校ではすごくテニスコートが目立つところにあるんだけど、それでテニス部だった。今もそうだけど別段頭が悪いということもなくて、実際お兄ちゃんなんだけど、お兄ちゃんキャラで面倒見はいいし爽やかで、テニス部の女の子から人気は広まり、彼が中三になる頃には一つ下の俺の学年にまでそれは伝播していた。
 俺は今と大して変わんなくて、男の子とも女の子とも仲良くしてたから、よく女の子に朝斗のことを聞かれたりした。当時の幼稚な俺としては、それで女の子と話せるだけで、ちょっとした得をした気分だったなー。
 昼休みに、教室の外の廊下をふっと朝斗が通ったのをきっかけにするように、クラスの女の子が俺にお願いしてくる。
「じゃあ好きな子とかいるのっ?」
「んー……。はっきりとは聞いてないけど、いるとは言ってないな〜」
 今日帰りに聞くか。そんな風に思っていた。
 テニス部は夏明けまでは三年もやるし、部活があるなら一緒に帰っていた。今と同じで結構仲良くて、恋愛相談とかそのくらい突っ込んだ話も包み隠さず二人で話したりしてた。
「そっかぁ。ありがとう!」
 そう言ってかわいい笑みを向けてくる女の子に、俺も思わずはにかむ。
 朝斗――当時はまだ朝兄って呼んでたっけ、はモテていいな。ずっとそう思ってた。
 背の伸び方は全然違ったけれど、幸い顔や体型は似ているし、俺はいつしか朝兄を憧れにしてた。
 そうそう、今物凄い大食いになっちまったのも、早く背、伸びたいなーと思って、たくさんおかわりするようになったのが始まりなんだよ。
 今も朝兄には勝てないなーとは思うけど、当時の憧れようは半端じゃなかった。
 同じ床屋に行って、同じ服を買って、テニス部に俺も入った。
 テニスが結構上手い朝兄に追いつきたくて、俺も必死に練習した。テニスは楽しかったけど、結局朝兄を追っかけるのをやめたらもうやめてもいいくらいのものだった。
 さて、あんまり現在の俺が過去を語る、って風に書くと、なかなか時間軸も混乱しやすいだろうから、俺の初恋と失恋に関わる数日間だけ、そのときの気持ちになってみようかな。



「朝兄! お疲れー」
「おー、琴もお疲れ」
 部活が終わって、ラケットバッグを背負った朝兄を見つけて、急いで駆け寄る。
 いつも置いてかれはしないけど、結構俺のこと待ってはくれないんだよな。
「日ィ、長くなったな」
 部活が終わった後でもまだまだ高い太陽を見上げる。
 夏が深まっていくということは、朝兄たち三年の引退も近いということ。
「来年お前が頑張れるくらい良い成績とってやる」
 俺が朝兄を目指して頑張ってることを知って、彼はそんな風に冗談めかして言う。
 俺にとって、朝兄に追いつくこと、それにしか意味はないのにな。
「朝兄、あのさ」
「なんだ?」
 昼休みに、帰り聞こうと思ったことを問う。
 笑って首を振ると思っていた彼は、一瞬ビックリした顔をして、顔を赤くした。
「実は、いる」
「……マジかっ」
 聞いた俺も驚いて、照れる朝兄と、何とも言えない気分で愕然としている俺との間に、微妙な空気が流れる。
「相手は?」
 そ、そうだそうだ。これを聞くべきだ。
 聞くと、彼は困ったような顔をして首を傾げた。
「知ってるかな。三年の、笠原 美佳って子」
「……え」
 俺は、その人のコトを知っていた。
 明るくて、透明、って言葉が似合うくらいキラキラしていて、綺麗な女性。
 去年同じ委員会になって、実は今年も、だった。
 朝兄が、ミカ先輩のこと……。
「知ってんの?」
「ウン、委員会で仲良くしてもらってる」
 俺がミカ先輩と今年も同じ委員会だというのは、偶然なんかじゃなかった。
 次も同じ委員会をやる、と言っていた彼女を信じて、俺もまた同じ委員会に立候補したまでだった。
「まさか、お前が笠原のこと好きってことは」
「ないない! ただ先輩として俺が懐いてるだけ」
 ……初めて、俺は朝兄にウソをついた。
 多分バレてない。俺はいつしか、彼女が喜ぶようにといつも浮かべていた笑顔を浮かべていたから。
 俺は、ミカ先輩のことが好きだった。それも、初恋。
 いつ告白しようとか、早くどうにかしなきゃ、とか、考えるのが少し怖かったのかもしれない。
 でも、朝兄が彼女のことを好きで、彼女が朝兄のことを気に入るならば――いや、きっと気に入るだろう、俺はそれもいいと思った。
「っていうか、コレ、琴にも秘密にしてたよな、ゴメン」
 兄弟の間で隠し事なし、っていうのは、暗黙の了解となっていたから、朝兄は素直に謝った。
 だから俺はそんな、大好きな兄貴の照れ顔を責めることもできなかったし、口をつぐんだ。


「琴吹君ってお兄ちゃんとそっくりだよね。あ、琴吹君の方がちょっとちっちゃいか」
「背、気にしてるんですよー?」
 冗談めかして笑う彼女は、そう、ミカ先輩。
 週に一度の委員会は黙っていてもやってきて、俺は彼女と会わなくちゃいけなくなる。
 それが嬉しいけれど、どこか苦しくもあった。いっそのこと、朝兄が早く告白してくれれば、俺は恋人の弟として、それなりの立場にもなれたと思うのに。
「ねね、琴吹君さ、私の相談聞いてくれる?」
「なんですか?」
 机に両肘をついて、その綺麗な両手で頬を包み込み、笑う。
 ああ、どうしてこんなにも綺麗なんだろう。こんなに綺麗なら、むしろ朝兄と同じくらい人気者ならよかった。
「……今一応委員会中だから、この後、ちょっと残ってもらってもいいかな?」
 聖母のような微笑みを向けた彼女に、俺はこくりと頷いた。

「あのね、ちょっと言いにくいんだけど……」
 『私、千種君――朝斗君が、好きなの』
 薄赤く頬を染めた彼女は、夏のギラギラとした太陽の下でも、みずみずしい美しさで。
 そしてその様は、あの日の朝兄と重なった。
 俺の初恋は、自分から手を放すまでもなく、終わっていた――。
「それでね、告白しようと思うんだけど……」
「絶対上手くいきます! だから早く告白した方がいいですよっ!」
 俺は彼女の手をとっていた。自分でも何が何だかわからなかった。そしていつものように、彼女の喜ぶ笑顔を向ける。
 きっと泣きそうなことなんてバレない。朝兄にもバレない作り笑いを、この人が見破るはずない。
 しかし、彼女はどうしてか戸惑ったような表情を見せた。
 それを見て俺はいてもたってもいられなくなり、適当に理由をつけてその場を去ってしまった。
 大好きな二人が幸せなら、初恋が失恋だって、別に構いやしない。
 元から自分は楽観的な性格だと思っていたが、心は冷めているのか熱しているのか全くわからなかった。
 何故なら、頬は熱かったのに、脳は冷静で、しかし言動はおかしかったから。


 それから一週間が経って、また委員会がやってきた。
 色々と考えることはあったけれど、俺の気持ちはあの日からどうしてか変わっていなかった。
 朝兄とはほぼ毎日話すけど、そういう話ももう一切していなかったし、これ以上暗い気持ちになるまいとした。
 俺はミカ先輩を見つけた途端、俺には何事もなかった、むしろもっと応援しようと思って、笑顔で駆け寄った。
「ミカ先輩、こんにちは!」
「琴吹君。あのね、私……」
 『一応委員会中だから、これで。明日の放課後ね、朝斗君に告白しようと思ってるの。テニス部オフでしょ?』
 彼女はさっと手元にあったメモにそう書いて俺に渡した。
 俺の笑顔は、引きつっていなかっただろうか。
 自分で応援する、と決意していながら、着々と近づく初恋の終わりに、俺は胸が引き裂けるような思いだった。
 『場所はどこにする予定ですか?』
 『テニスコート裏』
 テニスコート裏、か……。そこなら、オフの日は誰も寄らないし、テニスコートの側の並木のおかげで校舎からも見えない。
 『頑張ってください>ヮ<』
 特別綺麗とは言えない文字で、ひとしきりの戯言とも言える応援を書いて、俺はミカ先輩と目を合わせて笑った。
 もう、どうとでもなれ。


 そのとき、自分の気持ちや何やら、投げ出してしまったのが、俺の弱さだった。
 それなりに平穏な学校の中では、かなり突出している不良どもの集団が、何度も『テニスコート』と口にしていること。机に伏せて、俺は聞いていたんだ。
しかし、その単語で思い出すべきことに、俺は一時的に靄をかけていた。嫌だった。経過なんて見たくなかった。三日後くらいまで眠って過ごして、幸せな状態の二人と、何事もなかったかのように笑う自分。それだけが欲しかった。
 そして、ぼうっとしていたのもいけなかった。最悪の場面に直面してしまった俺にとって、何が正しいのか、わからなくなった。


 視界が歪むのは、夏の厳しい日差しのせいか、目前の信じがたい光景のせいか。
 きっとどちらも、だろう。俺にとってはその理由なんてどうでもいいことだったけれど。
 どうして俺は、部室に寄ろうなんて思ってしまったのだろう。そうだ、シューズだ。朝兄がシューズを忘れたと言っていたのを、働かない頭ながらに思い出してしまったのだ。
 それも、本当はウソなのかもしれない。
 夏の窓辺で少し眠った俺の喉がカラカラだったのは当たり前だったけれど、その時だけはそれが眠ったせいだとは思わなかった。
「朝兄……」
 テニスコートの側の、イチョウの並木の作る日陰の下に倒れていたのは、ずっと俺が追いかけていた、兄貴。
 先ほどからセミの鳴き声にかき消されている泣き声は、誰のものか。
 わかってはいた。この場所に来てしまったときから。
 ミカ先輩は、部室の扉の前にぺたんと座り込んで、俯いていた。
 部室の扉は乱暴に開けられていて、ラケットとボールが数個散乱している。
 うつぶせに倒れる朝兄の肩に手を置いた。
 そこで、俺は気がついてしまった。俺の憧れは、途切れた。俺の憧れは、本当の正義にはなれなかった。
 いや、違う。俺が悪い。俺がミカ先輩や朝兄を止めれば、こんなことにならなかった。
 しかし、どうして止めなかった……? 朝兄ならば、大丈夫だと思ったからか?
 そうかもしれない、と、何故かそう思った。そうすると、俺の憧れは、こんなにも――っ!
「朝兄……起きろよっ! 朝斗! 朝斗ぉ……っ」
 彼なりの正義を突き通したとしても、それは俺が望んでいたものではない。
 目の前の男は、俺が彼の立場ならば、必死にしようとしたことを、放棄した。そうとしか、考えられなかった。
 俺の怒鳴り声と、ミカ先輩の泣き声、そして夏らしいセミの鳴き声だけがその場所に延々と残った。

「琴吹君、朝斗君、ごめんね……」
「俺が悪いんです。俺、知ってた……アイツらが来ること」
 なのに、全て放り投げて。無責任にも程があった。二人の幸せを願ってなんていたというのに。
「お前のせいじゃねぇ。俺、アイツらを前に何もできなかった。何もする勇気が起きなかった。……それだけだったってコト」
 ほら、やっぱり俺の知っている兄貴の信じる正義は、そういうものじゃなかったんだ。なのに、彼はそれを突き通せなかったんだ。
 自分の憧れが不完全だったと気がつくのが、怖かった。俺の中で朝兄は、一番だった。今となっては朝兄だなんて――彼は、朝斗、だ。
「だから、ゴメン。笠原、俺は付き合えない」
「わた、し……もっ。だから――」
 朝斗は、ミカ先輩を抱きしめていた。
 悔しさに歪む顔を、見られたくなかったのか、彼女の言葉を聞きたくなかったのか。
 どうせどちらもなんだろう。自分に悔しいままに、自分の気持ちを果たしたくなんてないんだ。


「この前の兄貴の仕返し、ちゃんとしなきゃな」
「はっ、俺たちがお前みたいなチビに負けるとでも思ってんのか、あぁん?」
 俺は心の中でほくそ笑んだ。この展開は、いける。
 そして俺は、俺なりにきちんとケジメをつけた。
 俺のクラスの、朝斗をボコったらしい不良軍団を、全員ボコり返してやった。――テニスの授業のシングルスで。
「まぐれだ! もう一回やれ!」
「放課後テニスコートに来いよ。ダブルスでも返り討ちにしてやるよ」
 悔しそうにするヤツらに目がけてスマッシュを打つのは、爽快だった。

 これで、俺は朝斗とひとつ差をつけた。アイツらに臆せずに仕返しをできた。
 ミカ先輩はまだ朝斗が好きだったらしいけど、朝斗はあんな情けないところ見せて、やっぱり付き合えないと言った。
 俺はなんか、そんな二人を見てたらもう初恋なんてどうでもよくなってしまった。
 今はそれよりも、朝斗という壁をひとつ越えられたという、喜びだけ。


 とまぁ、俺の初恋の話はこんなもん。
 ちなみに朝斗は、ラケットでガチにぶん殴られたせいで一ヶ月くらい学校を休んでテニスの引退試合も出られなくて、でもアイツは不良たちのせいにはしなかった。
 朝斗のカメラ趣味が始まったのはその頃くらいからだったけど、ま、俺はその辺あんま知らないなー。
 実はさ、俺、高一いっぱいくらい、またサキに同じくらい憧れててさ。
 でもな、桃ちーに一生懸命なサキ見てたら、やっぱり冷めちゃった。
 俺って案外、冷静なタイプなのかもな? なんちゃって。
 新しい恋を探す――なんて言ったら大げさだけど、なんかそういう感じに色々考えてるうちに、他の人の真似すること自体がカッコ悪いって気づいた。
 だからな、俺は俺だし、っていうかむしろ朝斗と似てるって言われるなんて屈辱……って言ったら言いすぎだけど、嫌なことなのかなって。
 これからは、俺は俺として、『俺』を作っていけたらいーなーって。
 誰もが認めるような、『千種 琴吹』ただ一人をさ。

Back